筑波潤朝(筑波山中禅寺別当潤朝) 筑波氏と結城合戦

筑波潤朝

筑波潤朝とは

筑波潤朝(筑波山中禅寺別当潤朝)は、筑波山・中善寺の別当を務めた筑波氏である筑波玄朝の子として、1410年~1420年頃に生まれました。

筑波家は、鎌倉時代の初期に常陸国守護となり、常陸・小田城を築いた八田知家の10男である、八田為氏が筑波国造の名跡を継いで筑波八郎と称したことから始まります。
筑波別当となった筑波為氏(筑波明玄)の子孫は、以後代々筑波氏を称し、筑波山の筑波神奉斎者として中禅寺別当を担いました。

八田氏は、4代・小田時知のときから、小田氏を名乗りますが、この小田時知は仏子玄朝ともあります。
ただし、この常陸守護・小田時知に関しては、よくわかっていません。


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筑波潤朝(つくば-みつとも)の活動が見られるのは、室町時代の1440年となります。
結城氏朝・結城持朝などは、永享の乱で自殺した足利持氏の遺児(足利春王丸・足利安王丸)を擁して挙兵し、室町幕府に対して反乱を起こました。
この時、室町幕府は、上杉清方・今川範忠・小笠原政康などを派遣して、結城城を包囲します。
その際、筑波潤朝は結城勢に味方していて、長沼氏秀を攻撃したとあります。
ただし、小田城の小田持家と小田朝久は、上杉清方についていますので、状況が不明瞭なところが残ります。
通説では、日光山中禅寺にて安王丸と春王丸らを匿ったとありますが、筑波神社記録では、筑波山中禅寺別当潤朝の父・筑波玄朝が鎌倉から連れ来て、筑波山で匿ったあと、結城城近くにて挙兵したともあります。
この挙兵には、小山氏朝、山川三郎、武井二郎、宇都宮氏、里見氏、簗田氏、芹沢氏、龍ケ崎氏が参じ、野田右馬助と矢部大炊助などは古河城にて籠城したとされます。

その結城合戦では、1445年、長沼淡路守の城(下野・皆川城?)を攻めた際に、父・筑波玄朝などが討死し、同じ小田一族である宍戸城主の宍戸持里と常陸・泉城に逃れたそうです。
その常陸・筑波城も室町幕府軍に包囲されましたが、将軍・足利義教が赤松満祐に殺害されたことで、幕府軍は退いた模様です。


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1455年、鎌倉公方・足利成氏が、関東管領・上杉憲忠を暗殺し、室町幕府8代将軍・足利義政と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争った享徳の乱(きょうとくのらん)となります。
この時、筑波潤朝は鎌倉公方・足利成氏に味方して、那須資持・小田朝久らとともに常陸・小栗城を攻撃し陥落させています。

以後、筑波潤朝の動向は不明です。

なお、筑波山の中禅寺は、徳川家康によって、1600年、筑波山別当から筑波氏を廃されましたが、江戸時代、江戸幕府から1500石もの寺領を持つなど、大変大きく崇拝されました。
しかし、惜しくも、明治維新後の廃仏毀釈により、たくさんあったお堂は、破壊され、現在、大御堂(おおみどう)が再興されただけとなっています。

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