日野富子とは 悪女なのか?優秀なファーストレディなのか?

日野富子

日野富子(ひの-とみこ)は、1440年に日野重政の娘として京都で生まれました。
父・日野重政は、権大納言も務め足利将軍家と親戚である藤原北家真夏流日野家の公家で、母は北小路苗子です。
この頃、室町幕府の権威は失墜しており、守護大名では内紛も絶えず、管領・細川勝元の発言力も高い状態で、1449年に8歳で将軍になった室町幕府・第8代将軍の足利義政も苦慮していました。
そんな中、日野富子は、1455年、16歳のときに、将軍・足利義政の正室となりました。
足利義政は、銀閣寺を創建したことでも知られます。

しかし、足利義政と日野富子の間には、女の子が生まれても、男子が誕生しなかったため、細川勝元に相談し、1464年、足利義政の弟である浄土寺の義尋を還俗させて養子にすると、足利義視を後継に据えていました。
足利義視の正室には、日野富子の妹・日野良子が嫁いでいます。
ところが、翌年の1465年に、待望の男子・足利義尚が生まれ、多分に漏れず、将軍後継問題となりました。


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将軍・足利義政は、一度、弟の足利義視を就任させたあとに、実子の足利義尚が成長したら将軍にするつもりでした。
しかし、足利義尚の養育係も務めた、政所執事・伊勢貞親が反対しました。
日野氏や日野富子も、山名持豊(山名宗全)と共に、足利義尚の擁立を画策するなか細川勝元らも味方にし、山名氏と対立していた伊勢貞親を失脚させます。
そして、畠山義就を上洛させますが、その畠山氏においても、畠山政長と、畠山義就の兄弟で継嗣争いが発生しました。
これに、将軍・足利義政は、細川勝元と山名宗全が推した畠山政長に味方するしかなく、畠山義就を追放しています。
畠山義就は、転戦したのち、やがて山名持豊(山名宗全)の支持を得て、京に入ります。
この山名氏の台頭に細川勝元は危機感を抱き、この将軍争いが、全国の守護大名を細川勝元派と山名宗全派に2分すると、戦国の世の始まりとなる「応仁の乱」へと発展して行くのでした。

なお、日野富子は、生まれたその日に亡くなった長男が生まれた際には、足利義政の乳母・今参局が呪いを掛けたせいだとし、琵琶湖沖島に流罪にしただけでなく、足利義政の側室4人も追放すると言う、非常な面も見受けられます。
しかし、賢い女性でもあったようで、細川勝元派と山名宗全派の大名らに、多額の金銭を貸して資産を構築したほか、米の投機も行うなどし、現在の価値で約60億円もの貯金を得ていたとも言われています。
1459年からは、京都の七口に関所を設けて、関銭の徴集も行いました。

1473年、山名宗全、そして細川勝元と相次いで死去します。
この時、すでに将軍争いをしていた足利義視は出奔していたたけでなく、幕臣らも失い失意を抱いていた足利義政は隠居し、子の足利義尚に将軍職を譲りました。
足利義尚(あしかが-よしひさ)は、将軍とは言え、まだ9歳だったため、幕政は、日野富子や兄・日野勝光が執り行ったようです。
実質的な幕府の指導者である日野富子は「御台一天御計い」と言われ、進物を届ける行列が絶えなかったと言います。
京都の多くの人々が、日野富子を頼ったと言う事ですね。
ところが、隠居したはずの足利義政も実権を握り続けたため確執となり、日野富子は別居しています。


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なお、1477年に応仁の乱は終結しますが、1480年、京の民は、徳政一揆を起こして日野富子の関所を破壊します。
このため、日野富子は、民衆への弾圧を強め、将軍・足利義尚も見放すようになりました。
一方で、京都が戦乱のため荒れ果てていたため、日野富子は私財から自社仏閣に寄進も行い、再興に努めたともされています。
まぁ、いずれにせよ、使ったお金には、税金も含まれていますので、100%純粋に日野富子のお金と言う事ではないと存じますが・・。
お金を使って、応仁の乱を終わらせたともされることがありますが、もし、本当に合戦を終わらせたかったのであれば、もっと早く、もしくは合戦にならないようにお金を使えなかったのかと疑問も感じます。
ただし、ひとつだけ言えることは、幕府の財政も厳しい中、日野富子の才覚がなかったら、室町幕府は、もっと早く終焉を迎えていたかも知れないと感じますと、やはり、並大抵の将軍正室(御台所)ではなかったのではと感じます。

1489年、子の足利義尚は、六角高頼を討伐するため出陣していましたが、近江鈎(まがり)(滋賀県栗東市)の陣中で急死しました。享年25。
この訃報に接した日野富子は、かつて将軍争いをした足利義視と自分の妹の間に生まれた足利義材(足利義稙)を将軍に擁立するため、足利義政と共同します。
その足利義政も1490年に没すると、足利義稙が10代将軍に就任しました。
しかし、後見した足利義視は、権力を持ち日野富子を嫌い、日野富子の邸宅を破壊し、所領を押収します。
1491年、その足利義視は亡くなりますが、今度は、将軍・足利義稙も、日野富子と敵対しました。

1493年、畠山基家を討伐するため、足利義材(足利義稙)が河内に出陣すると、日野富子は細川政元と一緒にクーデター「明応の政変」を起こします。
そして、足利義政の甥で堀越公方・足利政知の子・足利義澄を11代将軍に擁立しましたが、裏では朝廷に多額の献金をしたともされています。
このように、実際に天皇家、公家、寺社はだいぶ助かった部分があったようです。


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足利義材(足利義稙)は幽閉されることになったため、京都を脱出すると、畠山政長の領地である越中・放生津城に逃れて、神保長誠を頼っています。

その日野富子は、1496年に死去しています。享年57。

その後、将軍・足利義澄は自ら政治を行おうとして、怒った管領・細川政元は槇島城に退くなど、対立が続きました。
結果的には、細川家の内部争いで細川政元は暗殺され、1508年に前将軍・足利義材を擁立する大内義興らが京に迫ると、足利義澄は近江の六角高頼を頼り、朽木氏岩神館、さらには水茎岡山城に逃れるなど混乱は続きました。

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