戦国時代は、大名たちの政策として軍事侵攻が行われていました。
例えば、領国内に農業の失敗等で餓死者を出す程貧乏になった地域があれば、救済のため隣国から富を強奪する戦いを行います。
そもそも、農業をはじめ産業に適した土地を領有していれば貧乏になりにくいわけだから、豊かな土地を強奪するための戦いもあったでしょう。
さまざまな理由で争いは行われるわけですが、戦場となった地域は荒廃します。
田畑は荒れ、戦争の混乱の中で財産は略奪され…。
するとまた、戦場となった地域に住んでいた人たちを救済するために戦いをしないといけなくなります。
まさに、争いが争いを作る時代です。
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それでもどこかで争いをやめさせて、農民たちが農業等産業に専念できるように世の中を保つのが支配者の役割です。
今回は、豊臣秀吉の天下人の証とも言える惣無事令についてその意義を見ていきます。
豊臣秀吉の台頭
戦国時代、日本列島は、戦国大名をトップとする小国があちこちにある小国分立状態でした。
戦国大名はそれぞれ、自国内の地域間紛争に対して、仲裁したり時に強硬に止めさせたりまた争いが起きないよう制度を作ったりしていました。
一方で、自国を豊かにするため、あるいは豊かにできなくても飢饉は起こさないよう、隣国への侵略政策を行っていました。
すると、日本列島全体では争いは収束しません。
つまり、自国内を平穏に保つ戦国大名がいるように、戦国大名を指導して日本列島全体を平穏に保つ存在が必要なのです。
そして戦国時代も終盤、豊臣秀吉が他の戦国大名よりぶっちぎりに強くなり、戦国大名を指導できる存在となったわけです。
惣無事令
豊臣秀吉は、戦国大名それぞれが侵略政策を自主的に決めていた時代にあって、戦国大名の私的な争いを禁止して、また違反者は秀吉の命令により厳罰を与えられるという法令が出されます。
それが惣無事令(そう-ぶじれい)です。
また、豊臣秀吉は関白に就任し、つまり天皇の代理のような立場となることで、豊臣秀吉が単なる実力者ではなくその他の戦国大名たちとは一線を引いた偉い存在となったことを意味します。
豊臣秀吉は、名実ともに戦国大名たちの指導者となったのです。
よって、惣無事令も、日本で最も偉い天皇の威光を含んでいるものになるのです。
惣無事令の結果
島津氏、北条氏、伊達氏等有力大名たちが惣無事令を理由に攻められることになります。
これは、戦国大名それぞれで侵略の政策等を行っていた戦国時代では特異なことだったでしょう。
島津氏と大友氏の争いに、何も関係もなさそうな豊臣秀吉が絡んでくるのです。
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そして1588年、惣無事令を理由に、日本列島各地の大名たちが豊臣秀吉に絶対服従を確約するに至ります。
天下統一の概念の一つは、戦国大名を指導する存在の確立にあるでしょう。
その意味では、豊臣秀吉の惣無事令は、天下人の証であるとも言えます。
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