成就院について(藤沢市大庭)
神奈川県藤沢市大庭8157番地所在の成就院(じょうじゅいん)を紹介します。
高野山真言宗の寺院で山号は稲荷山です。
創建は文和年間(1352年 – 1356年)頃と伝わっています。
『新編相模国風土記稿』によると開基は山名伊豆守で
父親の山名時氏か嫡男の山名師義ではないかと指摘されています。
古くは宝染寺という寺号で大庭神社の別当でした。
天保年間(1830年 – 1844年)に火災にあっています。
<ご本尊>
愛染明王
※藤沢市内では珍しいとのことです。
【山名時氏(やまなときうじ)】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。
室町幕府侍所頭人、引付頭人。
伯耆国・出雲国・隠岐国・因幡国・若狭国・丹波国・丹後国守護。
足利尊氏・直義兄弟の母である上杉清子は母方の従姉妹に当たります。
戦乱に明け暮れ、動乱期をしたたかに生き抜いた生涯だったようです。
嘉元元年(1303年)あるいは永仁6年(1298年)、
上野国の新田氏の一族である山名政氏の子として誕生します。
足利尊氏の後醍醐天皇からの離反後、
南朝との戦いで楠木正行、名和氏の掃討などを行いました。
正平5年/観応元年(1350年)、
足利尊氏の弟である直義と、足利家執事・高師直の対立が発展して
観応の擾乱が起こると、
時氏は当初は師直派として直義排斥のクーデターにも参加しますが、
師直を滅ぼした直義に従います。
(出雲にいた嫡男・師義は離反して尊氏に従っています)。
直義が死去すると一時は将軍派に転身しますが、
出雲や若狭守護職を巡る佐々木道誉との対立もあり、
正平8年/文和2年(1353年)には
師義と共に室町幕府に対して挙兵して出雲へ進攻、
6月には南朝の楠木正儀らと共に足利義詮を追い京都を占領しますが、
7月には奪還されます。
領国に撤退した後、
尊氏の庶子で一時は九州で影響力を持っていた足利直冬を奉じ、
翌正平9年/文和3年(1354年)12月には
斯波高経や桃井直常らと再び京都を占領するも撤退します。
その後は山陰において、
幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して
播磨国の赤松則祐とも戦います
その後、幕府では南朝との戦いが小康状態になると、
大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、
時氏は伯耆・丹波守護になります。
時氏は南北両朝や守護大名同士の抗争に付け込んで
自勢力の拡大に注力し、
因幡に二上山城、伯耆には田内城と打吹城を築き、
やがて山名氏は山陰地方随一の勢力となっていきます。
5人の息子も時氏の死後に所領を増やしていきましたが、
それが将軍家に危険視され、後の同族争いに繋がっていくのです。
【山名師義(やまなもろよし)】
南北朝時代の武将・守護大名。
室町幕府小侍所所司、丹後国・伯耆国・但馬国守護。
嘉暦3年(1328年)、山名時氏の嫡男として誕生。
建徳2年/応安4年(1371年)に父が死去すると
惣領となりますが、5年後に師義も49歳で死去してしまいます。
嫡男・義幸は病弱で他の息子も幼少のため、
弟・時義が後を継ぎましたが、
これが山名一族内紛の一因となるのでした。
鎌倉時代末期~南北朝という、
史上かつてない動乱及び混迷期を乗り越え、
したたかに生き抜いた父親の創建かな?
とも思いました。
師義は父親と共に戦乱に明け暮れ、
けれども、したたかすぎる父親には及ばず、
惣領としての地盤を確固たるものにするには早い死去だったようですね。
いや・・・死因はなんだったのか・・・
力を削ぐには、惣領を早世させ、混乱させて内乱を起こさせるのも作戦。
案外、そのために惣領となって5年で死去となったかもしれません。
こうしてみると、
鎌倉時代末期から南北朝は、
今まで埋もれていたけれども面白いですね。
戦国時代も、いきなりその時代になった訳ではなく、
戦国時代を遡った応仁の乱⇒南北朝⇒鎌倉末期があったからこそです。
戦国時代前に興味が湧いてきます。
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