毛利元就(もうり-もとなり)は、織田信長と同時代に生きたとはいえ、信長の父信秀よりも年上であり世代は違います。
織田信長が尾張の国一国をまとめた頃、毛利元就はすでに中国地方大半を領有しています。
毛利元就より領土が狭かった織田信長が日本列島全体に支配権限を及ぼす天下統一を狙い、なぜ中国地方の覇者毛利元就が天下を狙わなかったのか、そのヒントについて本記事では見ていきます。
天下を望まず
毛利元就の有名なことばの一つに、「毛利家はこの上天下を望まず」というものがあります。
中国地方大半を領有し、日本列島全国的に見ても領土の広い大名に成長した毛利元就が、これ以上領土拡大することを控えるという方針を示したものと見られます。
その頃、尾張一国をやっとのこと治めた織田信長がその後日本列島の天下統一を目指して近畿地方や北陸地方さらに中国地方の毛利へ攻め込んできた支配方針とは、大きな違いを感じます。
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財力に優れていた中国地方
毛利元就がさらなる領土の拡大を目指さなかった理由の一つに、中国地方の恵まれた資源産出をあげられます。
中国地方と言えば、貨幣になる銀が大量に産出される石見銀山がありますし、農具や武器になる鉄の生産量も高いです。
それで、中国地方は日本列島の他の戦国大名たちに輸出をできる資源がありますし、石見銀山に至っては、交易相手として目を付けられていたほどです。
戦国大名がなぜ領土拡大を試みるのか、それは少しでもお金になる土地、基本的には当時の中心産業である農地を増やしたいからです。
ところが、毛利元就は農地を手に入れなくてもお金になる土地をたくさん持っていたということです。
領土を拡大すると連携を取れなくなる
戦国時代は、上下関係が目まぐるしく変動する時代です。
末端の農民ら庶民たちと彼ら彼女らをまとめる町内会長がいて、その町内会長をいくつかまとめる連合町内会長がいて、いくつかの連合町内会長をまとめる市町村長がいて、さらに市町村長をまとめる都道府県知事がおり、都道府県知事をまとめる戦国大名がいるわけです。
毛利元就は、言うなら町内会長をいくつかまとめる連合町内会長レベルの国人出身です。
戦国時代の中国地方は、どこの都道府県知事にも属さない国人をトップとする土地がたくさんある特殊な地域です。
そんな特殊な地域をまとめた覇者として毛利元就は君臨をしたわけですが、税金集めにも一苦労していたようです。
現代のように、この地域で事業をするなら事業収益の何パーセントを払えと杓子定規にはいかなかったようです。
こうした背景の中、戦乱で荒れているであろう農地とも言えないような他国の土地を軍費をかけてまで獲得すると、石見銀山や製鉄所を営業して税収豊かな土地の人々は、荒廃した土地を復興するために税を取られて嫌がるでしょう。
また、そんな豊かな土地や豊かな土地と仲のいい土地のリーダーに、毛利元就の滅ぼした大内氏や尼子氏を支持するいわゆる大内や尼子の残党もいるのです。
残党たちが、反毛利元就連合を作る可能性もあります。
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織田氏は凋落豊臣氏は滅亡
毛利氏と言えば、毛利元就のこうした天下を狙わないという家訓を守ったからなのかは解りませんが、拡大する織田と豊臣の前に従わざるを得なかった、徳川に対しては負けたという印象が強いです。
一方で、織田信長は織田氏最重要幹部の一人である明智光秀に離反されるという大事に至っています。
豊臣氏は、家来と位置付けられる徳川氏が征夷大将軍になったり、直属の部下まで徳川氏派閥に属する事態に至っています。
つまり、織田豊臣どちらも、配下の統制に失敗しています。
毛利氏は、現代まで重要な大名重要な藩として残ったわけですし、日本列島の覇権を握れなかったとは言え、成功者なのかもしれません。
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