どうする家康「岡崎の舞台」~岡崎城の移築城門と関連施設を巡る~

宿縁寺山門にある葵紋

愛知県の岡崎城日本100名城の一つで2023年の大河ドラマ 【 どうする家康 】 の舞台となる城です。

戦国時代は徳川家(松平氏)と三河武士の集う地であり、豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)が日本を統一していた一時期を除き、徳川家康(とくがわ-いえやす)誕生の地として幕末まで徳川譜代の重臣が治める城でした。

明治6年(1873年)廃城令に伴い廃城処分となり、天守以下の建物は撤去されましたが、この時、一部の建物は民間に払い下げ等となり、各地に現存しています。


スポンサーリンク



今回は各地に残る岡崎城の城門をご紹介していきたいと思います。
※写真は宿縁寺の山門にある葵紋です。

北門
宿縁寺(しゅくえんじ)
西浅井町古城1
宿縁寺山門
〇宿縁寺山門

しだれ桜で有名なお寺です。
字名に古城とあるように、近隣には浅井西城(あさいにし-じょう)があり、松平信忠(まつだいら-のぶただ:宗家6代目)は嫡子の松平清康(まつだいら-きよやす)に安翔城(あんじょう-じょう)を与えて跡を継がせ、次男の松平信孝(まつだいら-のぶたか)には三木城(みき-じょう)を、三男で鵜殿松平家の祖となる松平康孝(まつだいら-やすたか)に浅井西城を与えて城主としています。

宿縁寺の西側に建つ源空院は大永3年(1523年)松平康孝が建立し、死後は菩提寺となっています。

浅井西城
西尾市西浅井町宮下42
・現在は民家となっています。
・城跡の写真はお住まいの方の許可を得て撮影したものです。
・訪問の際は、近隣の方を含め、迷惑にならないように十分注意してください。
浅井西城
〇浅井西城の土塁上に建つ石碑

源空院
西尾市西浅井町札木30
・松平康孝の菩提寺であり、松平氏徳川略譜が記された看板等も立てられています
松平・徳川家系図
〇松平・徳川略譜

源空院
〇源空院本堂前に立てられた松平康孝菩提寺の碑

念沸堂赤門
謁播神社(あつわじんじゃ)
岡崎市東阿知和町字北山39番地
謁播神社山門
〇山門

謁播神社由緒
〇謁播神社由緒版

創建の年代は不明ですが、文徳天皇(850年~858年)の代に記された『文徳実録』に「仁寿元年(851年)謁播神社に位階従五位下と授く」との記載があるため、1300年以上の歴史を持つ神社です。

北曲輪門
岡崎市内の民家
文明4年(1472年)天野遠景(あまの-とおかげ)の後裔にあたる天野貞国(あまの-さだくに)が額田郡に屋敷を構え、その4代後裔の天野貞氏(あまの-さだうじ)は岡崎松平家に仕えた記録があります。
天文24年(1555年)徳川家康が幼少の頃、天野氏の屋敷に泊まった際、日近城主奥平貞直(おくだいら-さだなお)の襲撃を受けたと言う伝承が残されています。
明治6年に北門が移築されています。
四脚門看板
〇四脚門の看板

四脚門
〇四脚門

岡崎市内にある松平氏の関連施設
・松應寺
岡崎市松本町2丁目
徳川家康の父である松平広忠(まつだいら-ひろただ)の墓所があります
※写真撮影時は塀などの修復中でした。
松平広忠墓所
〇松平広忠墓所

松平広忠墓所看板
〇松平広忠墓所の看板

・伊賀八幡宮
岡崎市伊賀町東郷中86
文明2年(1470年)松平親忠(まつだいら-ちかただ:宗家4代)が、松平氏の氏神とし伊賀国より社を勧請した事が伊賀八幡宮の始まりとされます。
その後、慶長年間に徳川家康によって社殿の改築が行われ、三代将軍徳川家光(とくがわ-いえみつ)が社殿を拡張して、祖父の徳川家康(東照大権現)を祭神に加えました。
江戸時代を通じて、徳川家康の命日である4月17日には将軍の名代として岡崎藩主が伊賀八幡宮に代参することが慣習となっています。
伊賀八幡宮
〇伊賀八幡宮

随神門にある右大臣・左大臣の衣服には葵門が付けられており、徳川家光が寄進した物と言われています。
随神
〇随神
※胸部には葵紋が施されています


スポンサーリンク



(寄稿)だい

尾張・犬山城の解説【日本100名城】現存天守や移築城門と成瀬氏関連
井田野の戦いの解説~松平氏菩提寺「大樹寺」との関係も【どうする家康】登譽上人

共通カウント

フィードバックする
スポンサーリンク
スポンサーリンク

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。