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奈良・長谷寺とは
奈良の長谷寺(はせでら)は奈良県桜井市初瀬にある真言宗・豊山派の総本山です。
この記事では長谷寺の歴史に特化して記載したいと存じます。
創建は奈良時代と推測されますが、自伝では飛鳥時代の686年に道明が、西の岡に三重塔を建立し天武天皇の銅板法華説相図(国宝)を祀ったとされます。
その天武天皇(てんぶ-てんのう)は、672年、古代日本最大の内乱と言う壬申の乱(じんしんのらん)にて、皇位継承を争った天智天皇の後継・大友皇子を破り即位しました。
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そして、飛鳥に飛鳥浄御原宮を造営して遷都し、日本書紀・古事記の編纂を開始しています。
また、天武天皇は仏教を保護したため、豊山の地に長谷寺が開基されることにもなったようです。
727年には徳道が、聖武天皇の勅命を受けて東の丘に本尊・十一面観音像を祀ったともされます。
この十一面観音は、楠の大木から二体作ったとされ、もう一体は祈請の上で海に流すと、三浦半島に流れ着いて鎌倉に安置したのが、鎌倉・長谷寺とされます。
本堂は国宝ですが、実は奈良・長谷寺の本尊十一面観音像は7回焼失しており、現在の本尊十一面観音像は戦国時代1538年の8代目で国の重要文化財となります。
ただし、国宝と重要文化財として日本に現存する木造彫刻としては、日本で最大の大きさです。
860年頃からは、奈良・長谷寺にも別当(管理責任者)が置かれるようになり、朝廷(太政官)の統制を受けました。
平安時代の1024年には摂政・藤原道長も参詣。
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平安時代中期からは、奈良の権力者である興福寺の末寺になりました。
普通、各国には国守や守護となる武将などが置かれます。
しかし、大和国は興福寺の力が強く天皇や幕府も大和国守を置くことができず、ながらく興福寺が事実上の大和守護を務めました。
大和の武将らもほとんどが興福寺の門徒のような感じでしたが、それを壊したのが戦国時代の松永久秀になります。
戦国時代には興福寺が衰退し、1588年、豊臣秀吉により根来寺を追われた新義真言宗門徒が入山し、真言宗・豊山派が成立しました。
そのあと本堂が焼失しましたが、江戸時代に入り1650年に徳川家光が寄進して再建されました。
1667年にも徳川家綱の寄進で本坊が建てられますが、1911年(明治44年)に表門以外が焼失し、のち1924年(大正13年)に再建されています。
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下記では長谷寺の特徴部分をピックアップ致しました。
奈良・長谷寺の見学特徴
境内の途中からは有料拝観となります。
傾斜地にあるため、399段の階段を登った先に本堂があります。
ただし、傾斜は緩めであり階段の「段差」も低いため、歩きやすい階段で、めちゃくちゃ疲労すると訳ではありません。
屋根があるので雨でも登りやすくなっています。
ただ、京都の鞍馬寺のように乗り物で登れるようになるとありがたいのですがね。
本堂は京都・清水寺よりは狭いですが、本堂の前は「舞台」になっており、初瀬の展望が良い場所です。
現在、大和・長谷寺の末寺は日本全国に約3000寺あるそうです。
境内には約60名の僧侶が在山しており子弟教育・僧侶(教師)の育成も行われています。
早朝に訪問すれば有料で朝の勤行にも参加可能です。
見学所要時間は60分~90分といったところです。
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駐車場は有料ですが点在しています。
ただし、道路は門前町でもあるため狭めです。
近鉄・長谷寺駅からは徒歩15分。
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