執権とは
執権(しっけん)は、鎌倉時代における、鎌倉幕府での役職名として知られます。
もともと、平安時代末期から、役所における筆頭を意味する言葉でした。
2021年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、鎌倉幕府の2代執権・北条義時が主人公となります。
具体的に、執権の意味・役割を解説させて頂きます。
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まず、鎌倉幕府を開いたのは、平家を討伐もした、源頼朝です。
源頼朝は、朝廷より、征夷大将軍に任じられたため、鎌倉幕府の初代将軍が、源頼朝になります。
この将軍が言わば、鎌倉幕府のNo1、すなわち、一番偉い人でした。
しかし、北条時政や北条政子らは、北条家の権力を高めて行くようになります。
1199年、源頼朝が死去し、2代将軍に源頼家が就任しますが、有力御家人による「十三人の合議制」が敷かれ、将軍としての力を発揮できなくなりました。
そして、1203年、源頼家は、北条時政らによって、伊豆・修善寺に追放となっています。
また、政所(まんどころ)の別当(べっとう = 最高責任者)は、源頼朝が任命した大江広元でしたが、源頼朝を追放すると、北条時政も大江広元と一緒に、政所別当に就任しています。
<注釈> 政所とは、政治面の役所で、朝廷との交渉や幕府の実務を担当するところ。
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3代将軍は源実朝ですが、鎌倉幕府での最高権力者は、将軍ではなくなり、北条時政が最高権力者に近い立場となります。
そのため、初代執権は、北条時政とされますが、実際に「執権」と呼ばれるようになったのは、2代執権の北条義時の頃からだと言えます。
と言う事で、執権とは、役所で一番偉い人と言う意味だったのが、鎌倉幕府においては、幕政を担う最高権力者のことを言い、北条氏が執権を世襲しました。
3代将軍は源実朝ですが、将軍に就任した際の年齢が、僅か8歳ですので、政治は北条氏が中心になって行ったと言えます。
1203年、北条時政は、比企能員を滅ぼし、源頼家の遺児・源一幡も亡き者にし、後顧の憂いをなくしています。
しかし、北条時政は、1205年、畠山重忠の乱にて、無理やり畠山重忠を粛清したこともあり、子の北条義時と北条政子は、父の北条時政と対立するようになります。
特に、北条時政は、後妻の牧の方と共謀して、平賀朝雅を新将軍に擁立しようとしたとされ、北条義時らによって、伊豆・北条荘に幽閉されました。
こうして、2代執権・北条義時が、名実ともに、鎌倉幕府での最高実力者になった次第ですが、北条政子も「尼将軍」として君臨しました。
1213年には、和田合戦で、和田義盛を滅ぼし、北条泰時は、侍所別当も手に入れて、執権政治が確立しました。
また、横山党や和田氏の所領を没収し、北条氏の軍事力も高めています。
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1217年には、公暁により、源実朝が暗殺されると、以後、鎌倉幕府の将軍は、京の朝廷から迎えるようになり、源氏の将軍は途絶えました。
要するに、鎌倉幕府における4代将軍からは、完全に、名誉職・象徴のような立場となり、まさしく、執権が政権を担ったと言う事になります。
その執権を補佐したのが、連署(れんしょ)となり、初代・連署は、1224年に任命された、北条時房から、北条氏の一族が世襲し、増々、北条氏は権力を極めました。
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