織田信長の子どもには嫡男である織田信忠の兄にあたる人物がいました。
その人物は織田信正(おだ-のぶまさ)で、ある問題により嫡男ではなく庶兄子の扱いとなってしまった不遇の信長子息です。
今回は信正が何故庶兄子となったのかとその後の生涯を紹介したいと思います。
織田信正が庶兄子の理由
織田信正は信忠よりも3年早い天文23年(1554)に誕生します。
母親は織田家の重臣である塙直政の妹、塙直子(ばん-なおこ)。
しかしながら、信正は一般的には信長の子であるということは認知されていません。
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名のある武士の妹の子であるにも関わらず、歴史の表舞台に上がられなかったのは、信正の出生に起因があると思われます。
それは、当時直子は別の男性と交際している中で信長と関係を持ち、その時に生まれたのが信正であるから誰の子かはっきりしていない特殊な事情が噛んでいると考察されています。
村井貞勝の養子になる
このことにより、信長ではなく信長の家臣、村井貞勝の元へ養子となりました。養子となったことで名を村井重勝と変えています。
その後は官位を叙任され、天正2年(1574)には従5位下大隅守に、翌年には従5位上主膳正に、天正6年(1578)には従4位下侍従へと位を上げていきました。
そして、天正10年(1582)の本能寺の変では前田玄以と共におり、逃げ出していました。
本能寺の変で信長と養父の貞勝を失った信正は天正13年(1585)、行く当てを失ったかのように隠居しました。
32歳になった翌年には剃髪し、隠居先の京都見性にちなんで、見性軒と名を変えました。
また、その頃に見性寺を開基したと思われます。
父の七回忌を営む
見性寺を開基した後は天正16年(1588)に行われた本能寺の変での死者を弔う七回忌を営みました。
自身にとって父に当たる信長や貞勝や弟、信忠を弔うことができて信正は満足したことでしょう。
それと同時に豊臣秀吉も七回忌を参詣したことにより、見性寺には寺領が与えられ、年貢も免除される厚遇を得ました。
この待遇は徳川家康に世が成り代わっても続きました。
秀吉も家康も信長の子ということで、このような処置を行ったと考察してしまいます。
その後の信正は僧として戦国時代を生き抜き、94歳になる正保4年(1647)に没しました。
織田信正の子どもたち
信正は妻に信長の兄にあたる織田信広の娘、恭姫を娶り、子である信衡を儲けました。
そして、貞勝の娘との間に儲けた的寿は見性寺を継いで僧となりました。
信衡は豊臣秀次に仕えた後、松雲軒に名を変え出家します。
そして、寛文3年(1663)に90歳で没しました。
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また信衡の子、信直は元和2年(1616)に誕生し、元禄16年(1703)に89歳の高齢で没しています。
寄稿(拾丸)
・織田頼長 織田信長の甥でかぶき者
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