織田信長「14歳での初陣」吉良大浜の戦い

吉良大浜の戦い

織田信長の戦と言えば、今川義元を破った桶狭間の戦いや、武田家が衰退するきっかけとなった長篠の戦い、浅井・朝倉連合軍と戦った姉川の戦いなど、数多くの戦いが知られています。
では、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いより前の戦についてはどうでしょうか?
今回は、あまり知られていない織田信長の初陣についてお伝えしたいと思います。

信長の元服

織田吉法師は天文15年(1546年)に14歳で元服をし、織田三郎信長と名を改めました。
父の織田信秀は尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守」に仕える三奉行の一人でしたが、津島と熱田の二つの港を支配し、そこから得られる経済力を背景に、天文10年(1541年)に伊勢神宮に700貫文、天文12年(1543年)には朝廷に4,000貫文を寄進するなど、守護の斯波氏を凌ぐ財力を持ち、美濃の斎藤利政(後の道三)や三河の松平氏と、その背後で勢力拡大を続ける今川氏と抗争の只中での元服でした。


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織田信秀の思惑

織田信秀は、松平清康徳川家康の祖父)が暗殺された後、内紛が絶えない松平家の中でも、当主である松平広忠の正妻於大の方の実家で、松平家にとっても有力な豪族の一つである水野家を織田方に取り込む事に成功します。
水野家は緒川城(現在の東浦町)と刈谷城を中心に、勢力を保っていた豪族で、平安時代から塩の産地として有名な生田郷(※1)を支配していた他、境川と逢妻川の両川を上下する船荷を押さえるなど、軍事・経済の両面で織田家との結びつきを選択したと考えられます。

水野家と協力関係ができた織田信秀が次に狙った地は三河大浜です。
緒川・刈谷両城の下流に位置する大浜を得る事ができれば、三河湾を経由して知多半島沿いに熱田・津島の港まで船による大量の物資輸送(※2)が可能になります。

※1
延喜式に『生道塩一斛六斗与調塩共進自余輸絹絲塩』と記されています。
※2
現代では車両を使っての大量輸送が一般的ですが、この当時は陸上なら人力か牛馬での輸送が基本で、それ以上の大量輸送は船に頼る必要がありました。

いざ初陣

三河・大浜城には、織田家に対抗するため松平家から長田重元(徳川幕府で大名となった永井直勝の父)が配されていましたが、同じ大浜の祢宜である河合氏は勢力拡大が著しい織田家への接近を考えていました。

天文16年(1547年)大浜城主の長田重元が岡崎城へ赴く事を伝え聞いた河合氏は織田家へ「大浜城主不在」と急報します。これに対し、織田信秀は少し前に行われた斎藤利政(斎藤道三)との負け戦の評判を取り戻すべく、信長に大浜城への攻撃を命じました。
吉良大浜の戦いです。

信長と那古野城勢は斎藤利政との戦いには従軍しておらず、戦力の減少は無いものの人数としては800名程。
これに対し、三河・大浜城には2,000以上の兵がいたと伝わります。
兵力差を知った傅役の平手政秀や林通勝ら四家老は攻撃を見合わせるよう意見しますが、強風を知った信長は反対意見を押し切り那古野城を出発。
大浜まで約50kmの道のりを一気に進軍し、各地に放火をして大浜城を威嚇し、近隣で野営をした後、翌日には無事に那古野城へ帰還したとされています。


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太田牛一が著した信長の一代記『信長公記・天理本』首巻部分には、この様子が以下のように記載されています。
「天文十六年丁未 翌年織田三郎信長御武者始、平手中務丞其時之出立、紅筋のすきん・はをり・馬鎧にて駿河より人数入置候三州之内吉良・大浜へ御手遣、所々放火候而其日ハ野陣を懸させられ、次日那古野に至而御帰陣也、」

実は負け戦だった?

信長公記では、無事に初陣を飾った事になっていますが、地元の碧南市は正反対の話が伝わっており、その内容は以下の通りです。

三河・岡崎城で河合氏の裏切りを聞きつけた長田重元は将兵を引き連れて大浜へ帰還し、防備を固めます。
これに対し信長軍は城主の重元が不在と信じ込んで攻め寄せため、待ち構えていた長田軍に迎え討たれ、1km程の距離を押し戻されると、さらには松林の中に埋伏していた伏勢との挟撃を受けて窮地に陥ります。
多くの死者を出しながらも、周囲に火を放ち包囲を突破した信長はなんとか那古野城へと撤退する事ができました。

戦に勝利した長田重元は死亡した織田軍を弔うために塚を作ったのですが、戦死者があまりにも多く、十三もの塚ができたため、後にその地は十三塚と呼ばれるようになりました。
十三塚は現在の碧南市向陽町付近とされていますが、宅地開発が進み、遺構等は残されていません。


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正反対だから面白い

信長公記などの資料から来る信長の初陣は、戦闘は無く、敵地に侵入放火した後で、大胆にも野営を行って帰還した事から、無事に初陣を飾った事になっていますが、地元の逸話では正反対の大惨敗を喫した事になっています。
どちらが正しいかは、現段階では判りませんが、謎がある事は歴史の面白さの1つですね。

(寄稿)だい

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