斯波義銀(しば-よしかね)は、戦国時代の武将ですが尾張守護・斯波義統の嫡男として1540年に生まれました。
母は不詳ですが、家女房(多々良氏の娘)の可能性もあります。
父の斯波義統は、尾張守護でしたが実力はなく、尾張守護代・織田信友の傀儡にすぎませんでした。
天文23年(1554年)、斯波義銀が家臣らと川狩りに出かけている隙に、織田信友の重臣・坂井大膳らによって屋敷を襲撃され、父・斯波義統が殺害されました。
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その知らせが届くと、斯波義銀はそのまま那古野城の織田信長のもとに落ち延びます。
信長公記によると、大義名分を得た織田信長は策略を考えたようで、尾張・守山城主の織田信光が、清洲織田家に味方するように誘いを受けたのを、逆手にとったようです。
織田信光は、織田信友の重臣・坂井大膳の誘いに応じるふりをして、1555年、清洲城を訪問すると、織田信友(織田彦五郎)を謀殺し、清洲城を奪いました。
坂井大膳は今川義元を頼って逃れています。
仇を取った形にはなりましたが、斯波義銀の功績はなく、織田信長の庇護を受けて、形式的な尾張国守護に奉じられました。
織田信長は清洲城を手に入れると本拠としましたが、本丸は斯波義銀に与え、織田信長は北櫓にて政務をとったとされています。
やがて、斯波義銀は、かつての権勢を取り戻そうとして、三河の吉良義昭と結託し、織田信長追放を画策します。
もちろん、うまく行かず、斯波義銀は追放され、大名としての斯波武衛家は滅亡しました。
その後、斯波義銀は河内の畠山高政を頼ったようで、しばらくしてキリシタン信者になったとされます。
織田信長と和解もすると、名を津川義近と改名し、娘が織田信包の長男・織田信重の正室となっています。
また、弟の津川義冬(津川雄光)は、織田信雄の家老を務めました。
1582年、明智光秀による本能寺の変のあと、羽柴秀吉と織田信雄と対立します。
羽柴秀吉は、織田信包の有力家臣である、津川義冬・岡田重孝・浅井長時らが羽柴家に寝返ったという流言を流し、この話を信じた織田信雄は、3人を殺害しています。
そのため、津川義冬の居城だった松ヶ島城が、津川義近(斯波義銀)に任されたようですが、小牧・長久手の戦いになると木造具康・滝川雄利から攻撃され、蜂屋謙入と一緒に降伏し、以後は蒲生氏郷の家来に加わったようです。
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豊臣秀吉が大坂城にて関白になった頃には、足利義昭や山名豊国とともに津川義近は御伽衆として見られ、大名並みの待遇となっています。
しかし、1590年、小田原攻めにて降伏した北条氏直の赦免を嘆願したことで、豊臣秀吉の怒りをかって失脚しました。
津川義近(斯波義銀)は慶長5年(1600年)死去。
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