楯岡満茂(たておか みつしげ)は、本城満茂とも書きますが、最上氏の庶流である最上一族で、出羽・楯岡城主でした。
戦国時代の1547年に生まれ最上義光に仕えました。
1586年に、横手城主・小野寺義道は、名将・八柏道為を従えて侵攻し有野峠の戦いとなりますが、最上義康と共になんとか撃退しています。
1595年、最上勢の総大将として小野寺領に侵攻すると、湯沢城を陥落させました。
出羽・湯沢城主になると、湯沢氏を称しています。
1600年、関ヶ原の戦いの際には、上杉景勝・直江兼続の攻撃に対せず、小野寺義道の攻勢を警戒して、湯沢城の守備を固めています。
1602年、出羽・湯沢城は佐竹家の領地となり、1603年、楯岡満茂は45000石と大名並みの待遇にて亀田の赤尾津城に移りました。
そして、赤尾津氏に一時改名していますが、本荘城を築いてからは、本城氏を名乗り本城満慶と称しています。
しかし、最上義光が死去したあと、1622年に御家騒動が起こり最上家が改易されると、楯岡満茂の身柄は前橋城主・酒井忠世に預けられ、1639年に死去しています。
子孫は本多家の家臣として残ったようです。
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