尼子勝久の歴史解説

尼子勝久の歴史解説

尼子勝久(あまご-かつひさ)は、戦国時代の武将で、尼子新宮党の当主・尼子誠久の5男として1553年に誕生しました。
その父・尼子誠久、2人の兄、祖父は、1554年に粛清され命を落としていますが、一説によると、月山富田城主・尼子晴久の命ともされます。
この時、乳母の夫、小川重遠の助けを受けて、2歳の尼子勝久は備後の徳分寺に入り、僧侶となりました。
のち、京都に出ると東福寺の僧となっていますが、尼子家は、毛利元就の侵攻を受けて、1566年に滅亡しました。
このとき、尼子家の旧家臣らは、毛利家に反発して抵抗しますが、1568年に、山中幸盛・立原久綱らによって尼子勝久は僧を辞めて還俗します。
そして、尼子家の再興のため旗揚げし、当初は、隠岐に入りました。
1569年、出雲に移ると、出雲・新山城に入城し、月山富田城の奪還を試みますが、毛利元秋天野隆重の抵抗を受けて失敗しました。


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1570年、布部山の戦いでも、尼子再興軍は毛利家に敗北を喫したため、京都へと逃れました。
1574年、因幡の有力大名・山名豊国の支援を受けて家、因幡からの出雲へ入ろうとしますが、これも失敗すると、織田信長を頼ります。
織田家は、毛利攻めを予定していたことから、目論見が合致し、尼子再興軍は羽柴秀吉の傘下として出陣します。
1577年、宇喜多直家の領地にある播磨・上月城を攻略すると、尼子勝久と山中鹿之助に上月城が与えられました。
しかし、毛利家との最前線と言う事もあり、1578年、毛利勢は3万で上月城に迫ります。
羽柴秀吉は、織田信長の命により、別所長治が籠城する三木城攻めを優先し、亀井茲矩を使者として上月城に送って撤退するよう指示しました。
しかし、ようやく、城を手に入れた尼子再興軍は城を捨てずに、毛利勢の攻撃を受けて、 上月城の戦いとなります。


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兵糧が底を突き、尼子勝久は、もはやこれまでと、嫡男・豊若丸、兄弟の尼子氏久、重臣の神西元通らと共に自刃して果てました。享年26。
山中鹿之助は、毛利家の捕虜となり、鞆の浦にいる毛利輝元のもとに護送される際、途中の備中・松山城近くになる国合(阿井)の渡しにて、殺害されました。

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、尼子勝久を須田邦裕さんが演じておられます。

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