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源義経とは
源義経(みなもと-の-よしつね)は、平安時代末期の武将で、鎌倉幕府の初代将軍になった源頼朝の弟になります。
ただし、源義経は9男(九郎義経)で、母は側室・常盤御前でした。
幼いころは牛若丸(うしわかまる)と呼ばれ、わんぱく牛若丸と言う表現も使われることがあります。
父・源義朝が謀反人となり討死すると、母と逃亡しました。
牛若丸が11歳のころ母が再婚すると、京都・鞍馬寺に預けられて、遮那王(しゃなおう)と称されています。
しかし、鞍馬寺を出ると、弁慶と知り合い、東北に向かって、平泉の藤原秀衡を頼っています。
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1180年、兄・源頼朝が伊豆・韮山にて挙兵すると、源頼朝は佐藤継信・佐藤忠信らと馳せ参じました。
源頼朝が富士川の戦いで勝利したところに合流し、黄瀬川の陣(対面石八幡神社)にて涙の対面となっています。
源頼朝は鎌倉に戻って政務をとり、源義経と源範頼が平氏討伐の鎌倉軍を率いて、京に向かいました。
後白河法皇を幽閉した木曽義仲を、宇治川の戦いで敗走させ、一ノ谷の戦いでは平氏本陣を急襲し大勝利を治めます。
屋島の戦いでも平家を追い込み、壇ノ浦の戦いにて平氏を滅ぼしました。
兄・源頼朝との確執
平宗盛・平清宗の父子を護送し京都に凱旋すると、兄・源頼朝の許可を得ずに、朝廷から院御厩司の官位を、平氏の捕虜である平時忠の娘・蕨姫を娶ったことなどを咎められます。
源義経は、弁明に向かいしますが、鎌倉に入ることを許されず、江ノ島近くの満福寺にて、腰越状を大江広元に託します。
こうして、源義経は、兄・源頼朝から討伐を受ける事となり、源義経は郎党や愛妾・静御前を連れて吉野に身を隠しました。
京にもいられなくなった、源義経は、再び藤原秀衡を頼って奥州平泉に身を寄せました。
1189年、藤原秀衡が死去すると、後を継いだ藤原泰衡は源頼朝の圧力に屈し、衣川館を襲撃(衣川の戦い)して、源義経らを討ち取りました。享年31。
源義経の首は、鎌倉に送られて、藤沢の白旗神社に葬られています。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、悲劇の源義経を、俳優の菅田将暉さんが演じられます。
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源義経のポイント
源義経は、源頼朝の弟 ※母は違うが父(源義朝)が同じ
母が再婚したため、京都・鞍馬寺で僧侶になった
その後、弁慶と出会い東北の平泉に行った
兄・源頼朝が伊豆にて挙兵すると、郎党を率いて兄に合流し、初めて対面した
その後、平氏打倒の戦いで大活躍した
しかし、兄・源頼朝は、京での行いを良く思わず、逆に源義経を討伐
源義経は郎党や愛妾・静御前を連れて、再び平泉に逃れた
その後、平泉は鎌倉幕府軍の攻撃を受けて、源義経は討ち取られた
・源義経とは~腰越状と腰越の満福寺や首塚・白旗神社や平泉義経堂も
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