平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)は、 東京都千代田区大手町1丁目にある平将門の首を祀っている塚です。
略して「将門塚」とも呼ばれます。
平将門の話でも触れておりますが、平安時代中期の940年、平将門の乱にて討死したその首級は、平安京まで送られて東の市・都大路にて晒されたとされます。
しかし、将門の首は、ずっと目を見開いたままであったとも伝わり、3日目の夜になるとついに空高く、東へと飛んで行ったと言います。
伝承では、数箇所に首が落ちたと言い、そのひとつで、最も有名なのが東京の都心にある「平将門の首塚」です。
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現在は、三井物産本社ビルの脇になります。
平安時代の住所としては、武蔵国豊嶋郡芝崎村になり、村人は長年、将門の怨霊に苦しめられていたと言います。
そして、現在の平将門の首塚近くには、昔、神田明神がありました。
江戸城が増築されることに伴い、神田明神は江戸時代初期に、現在の場所に移転したと言う事になります。
その昔の神田明神近くに、平将門の首が供養されて、平安時代末期には平氏武将の崇敬を受けました。
そのため、平将門の神様に祈願すると、勝負に勝つといわれる由縁です。
現在の神田明神の主祭神のひとつは、平将門命にもなっており、除災厄除の神様です。
神田(かんだ)と言う地名も、平将門の「体」(からだ)が訛って「神田」と呼ばれるようになったとする説もあります。
江戸時代には酒井忠清など酒井雅楽頭家の上屋敷の敷地内となり、「平将門の首塚」は中庭に位置することになったとようです。
ただし、徳川家康は平将門への挨拶を欠かさなかったとも言います。
時は流れて、大正時代に関東大震災となると、跡地には大蔵省仮庁舎を建設することになりました。
このとき、発掘調査が行われ、石室など古墳跡の要素が発見されています。
なお、工事関係者や大蔵省の矢橋官材局課長などの職員数十名、さらには時の大蔵大臣・早速整爾など、相次ぐ不審死が発生。
完成した仮庁舎では、転倒するなど怪我人が続出したことから「平将門の祟り」との噂が立ち、仮庁舎は取り壊されました。
その後の大蔵省ですが、平将門の死からちょうど1000年後の1940年には、落雷による火災で全21棟が焼失しています。
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太平洋戦争後にも、GHQの命令で区画整理する際に、撤去しようとしたところ、工事ブルドーザーを運転していた日本人が墓のようなものの前で突然転落して死亡する不審な事故が発生したため、計画中止となっています。
調べてみると、焼け跡から鎮魂碑が出て来たとされます。
ある意味アメリカにも負けを認めなかったと言う事で、それ以降、平将門の首塚がある一角だけは、ビルの谷間にポツンと存在する形となっています。
他にも日本長期信用銀行の伝説などもある平将門は、日本の三大怨霊のひとつです。
他には、崇徳上皇,菅原道真と言う事になりますが、どんなに荒れ狂う怨霊であっても、誠心誠意示して尊重すれば、お互いに理解し合えるといったところでしょうか?
ただし、平将門の首塚を参拝される方は、跡を絶えません。
勝負に勝つと言う事で、周辺のビジネスマンなどが、勝負に出る際に、お参りするパワースポットとなっています。
今回、暗くなってから訪れましたが、それでも、数名の方が丁重にお祈りされておられました。
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東京の平将門の首塚への交通アクセス・行き方ですが、東京メトロ・都営地下鉄の大手町駅「C6a」出口から徒歩1分となります。
駐車場はありませんので、近くのビル地下パーキング利用となりますが、大手町だけに駐車料金は覚悟願います。
他には、御首神社(岐阜県大垣市)、築土神社(東京都千代田区)、國王神社(茨城県坂東市)などにも平の将門首塚伝承があります。
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