土井利勝(どい-としかつ)は、水野信元の子として1573年に、浜松で生まれました。
父・水野信元は、松平家譜代の家臣で、妹・於大の方は、岡崎城主・松平広忠の正室になると、徳川家康を産んでいます。
1575年、父・水野信元が、武田勝頼の重臣である秋山信友と内通して兵糧を売ったと、佐久間信盛が織田信長に報告したため、徳川家康は平岩親吉に命じて、水野信元を殺害しました。
そのとき、まだ幼かった土井利勝の命は救われ、土井利昌(小左衛門正利)の養子になったと言うのが一般的です。
土井家には嫡男・土井元政(土井甚三郎)がいましたが、のち土井利勝が家督を継いでいます。
この土井利勝の生まれには諸説あり、養子ではなく、土井利昌と葉佐田則勝の娘との間に生まれた実子である説、他にも徳川家康の落胤という俗説もあります。
土井利勝は、のちに徳川家康のご落胤と言われるのを、すごく嫌ったと江戸時代に記録がありますので、当時から、落胤の噂はあったようです。
その理由としては、土井家は譜代家臣ではないのですが、幼少時から土井利勝は徳川家康の鷹狩りに随行するなど、可愛がられていました。
また、土井利勝が生まれた頃、徳川家康の正室・築山殿は、子の松平信康と共に岡崎城におり、浜松城の徳川家康とは何年も別居状態であることも、噂の理由です。
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いずれにせよ、1579年4月、西郷局が徳川秀忠を産むと、安藤重信や青山忠成と共に、土井利勝は7歳にして、徳川秀忠の傅役(小姓)になっていますので、幼少期より聡明だったのでしょう。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、徳川家が江戸城に入ると、1591年、土井利勝は相模国にて1000石となりました。
正室は松平近清の娘です。
1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従って中山道から進んでいますが、信濃・上田城の真田昌幸から抵抗を受けました。
しかし、戦後、加増を受けて1500石と出世しており、1602年には1万石となって、下総・小見川藩主となりました。
1605年、徳川秀忠が征夷大将軍になるため上洛した際にも同行し、土井利勝は側近としての地位を固めて行きます。
1610年には、3万2000石にて下総・佐倉藩主となり、本多忠勝が死去すると、徳川家康の命にて秀忠付の老中となっています。
1615年、大坂の陣でも、徳川秀忠に従い出陣し、6万2500石に加増され、青山忠俊、酒井忠世と共に徳川家光の傅役にもなりました。
政治手腕にも優れていた土井利勝は、平和な世の中で増々能力を発揮し、一国一城令、武家諸法度などの制定にも関わりました。
徳川家康が死去すると、政務面での実力者である本多正純が失脚しますが、これは土井利勝が江戸幕府での最高権力者の座を狙ったからともされています。
1623年、徳川秀忠が隠居して、徳川家光が3代将軍・になると、土井利勝、青山忠俊、酒井忠世は引き続き、幕政を担いました。
1625年、土井利勝は14万2000石にもなっていますが、1633年には古河藩16万石となり、参勤交代制度も開始し、江戸幕府の支配体制を確立させました。
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しかし、駿府城の徳川忠長と、熊本藩主・加藤忠広が改易された際に、徳川忠長を擁護していた土井利勝の発言力は弱まります。
1638年には、若狭・小浜藩の酒井忠勝と共に大老に就任するも、病気がち(中風)となり、名誉職のような状態になりましたが、島原の乱には病床で対応しています。
1644年7月10日、土井利勝は大老在職のまま死去。享年72。
家督は、長男・土井利隆が継いでいます。
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