払田の柵跡(ほったのさくあと)

払田の柵跡(ほったのさくあと)

国指定史跡「払田柵跡」(ほったのさくあと)

所在: 秋田県大仙市払田字仲谷地95
時間 :常時公開
アクセス:
JR大曲駅より車で15分
バスの場合千屋線「埋蔵文化財センター」(フリー乗降区間)下車後すぐ
料金:無料
駐車場:25台
【概要】
今から約1200年前の平安時代の初め頃、
国家がこの地の統一を進めるために造った、
役所と軍事、儀式の役割を持ったといわれている遺跡です。
けれども、古文書などには記述が見られず、
歴史上の名称が未だ解明されていないなど、多くの謎を秘めた遺跡でもあります。
周囲を約3.6kmの材木塀で囲まれ、
復元された外柵南門は高さ9.7mと広大なスケールを誇る払田柵跡。
夏と冬にはその敷地で祭りも行われます。
予約でガイド付きの歴史散策もできるそうです。

【発見】
1902年頃、耕地整理の際に秋田県仙北郡千屋村(現在は美郷町)の水田から
200本余の柵木が発見されました。
けれどもこの木は燃料にされたり、下駄に加工され売られたりしました。
しかし、後藤宙外が遺跡の存在に注目し、
遺跡内の文字の書かれた木片を採集して、
敦煌出土の「木簡」に似ていると論考しています。
1930年3月に文部省に嘱託された上田三平が発掘調査を開始し、
払田柵跡の存在が明らかとなりました。
1930年10月には本格的な調査が開始され、
その結果、1931年(昭和6年)3月30日に秋田県としては
初めて国の史跡に指定されました。
払田柵の遺構はその規模において
陸奥国府が置かれたとされる多賀城を遥かに凌ぐものです。

【様々な学説】
775年に秋田城から遷された出羽国府、すなわち「河辺府」とする説。
さらに、801年に、坂上田村麻呂が造胆沢城使となり、
出羽権守文室綿麻呂を遣わして、河辺府、すなわち払田柵の造営に着手し、
804年に完成したとする説。
横手盆地南端部の雄勝郡内に設けられた雄勝城がのちに移転された説。
現在あらためて注目されており、年輪年代測定の結果とも矛盾しないそうです。
なお、雄勝城(おかちじょう/おかちのき)とは、
出羽国雄勝郡(現在の秋田県雄物川流域地方)にあった日本の古代城柵。
藤原朝狩が天平宝字3年(759年)に築造したとされています。
現時点で発見されている城柵遺跡でこの条件に一致するものは払田柵跡のみです。

【払田柵跡総合案内所】
 開館時間:午前9時~午後4時
 ※12月~3月までの期間は予約での開館
TEL:0187ー69-2397
<問合せ>
・大仙市生涯学習部文化財保護課/TEL:0187-63-8972

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