石垣山城の謎~豊臣秀吉による小田原攻めの拠点である一夜城の伝承の背景を探る

石垣山城

石垣山城とは

1582年(天正10年)、天下統一を目指していた織田信長は、本能寺で重臣の明智光秀により殺害された(本能寺の変)。
織田信長の天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉は、四国・九州を平定した後、1590年(天正18年)3月から臣従しない関東の覇者・後北条氏の攻略を始めた(小田原攻め)。
この小田原攻めにおいて、豊臣秀吉は全国から総勢20万の軍勢を集め、後北条氏の本拠・小田原城を包囲するが、その時、本拠(「付け城」「陣城」)として築いたのが「石垣山城」である。
この石垣山城は、墨俣城と同じく一夜にして築かれ、その威容を見た後北条氏の軍勢が戦意を喪失したという伝承をもち、地元では「石垣山一夜城」と呼ばれて親しまれている。
本稿では、文献史料を基に、一夜城の伝承の背景について探究する。

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石垣山城の築城

豊臣秀吉は、後北条氏を攻略するため、1590年(天正18年)年3月1日に京都を出発、山中城など後北条氏の前線の諸城を攻略しながら、同年4月6日、箱根湯本の早雲寺に着陣した。
豊臣秀吉は小田原城包囲の態勢を整えると、小田原城から3㎞離れた標高約240mの笠懸笠懸(かさがけ)山に本拠(「付け城」「陣城」)を築くことを決め、ただちに石垣山城の築城に着手したものと考えられる。

文献史料によると、例えば、1590年(天正18年)4月28日付の芝山宗勝の書状には「御座所もはや石くみも、御てんも、らい月にハいてき候ハんまゝ、やかて御かいちんなされ候ハんとの事候、たいりやく七月中にハ、御かいちんにて候へく候、……」とあり、石垣、御殿とも5月中には完成し、7月中には秀吉が移ってくる見通しであると記されている。


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一方、『伊達日記』では、伊達政宗が秀吉の下に参陣した6月9日段階で「小田原御陣所ニ石垣御普請被成候半ニ」と、石垣の普請は半ばであるとしている。
千宗易が古田織部に宛てた6月20日付の書状では「関白様被仰付候御城も、漸當月出來にて候、然者還御あるへく候哉」と、6月中の完成を報告しており、徳川家康の家臣である松平家忠の日記の「廿六日、丙申、関白様石かけの御城へ御うつり候、‥‥」という記述から、6月26日に秀吉は石垣山城に移ったことが確認できる。
こうした史料から、石垣山城は4月6日以降、6月26日までの約80日を要して築城されたことになる。

一夜城の伝承の背景

それでは、一夜城の伝承にはどのような背景があるのだろうか。
『北条記』(関白勢囲小田原事)には、「卯月朔日より人数を石垣山の松森の間へ上げ陣屋を作り、矢倉を上げ、四方の壁を杉原紙にて張しかば、一夜の中に白壁の屋形が出来る。さて普請出来ければ、関白陣屋へ御移りあり。面向の松の枝ども切りすかしければ、小田原勢肝をつぶし、こはかの関白は天狗か神か。かやうに一夜の中に見事なる屋形出来けるぞや、と松田が教へたるとは夢にも知らで、諸人恐怖の思をなすも理なり」という記述がある。

この記述からは、陣営の前面に杉原紙を張り白壁のようにみせ、ある日前面の樹木を切り払うことで、一夜にして城が完成したように見せたことや、後北条方は一夜の中に巨城が山上にそびえ立っているので肝を冷やしたことが分かる。
これと類似した記述は『関八州古戦録』にもあり、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失った、としている。

後北条氏側は小田原攻めの際、撃って出て戦うか、籠城するかで意見がまとまらず無駄な時間を過ごした。
いわゆる小田原評定の結果、籠城策を採ることが決まると、戦線を縮小し、豊臣勢の主要侵入路に位置する山中城や河村城足柄城などを大規模に改修して堅固にした。
また、本城の小田原城は、三の丸の外側に総延長9㎞余にも及ぶ「惣構え」を構築した。


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小田原城は1561年(永禄4年)に越後(新潟県)の上杉謙信、また1568年(永禄11年)には甲斐(山梨県)の武田信玄の大軍に包囲されるが落城することはなかった。
戦国期末の小田原城は、最大規模の中世城郭として防御態勢を強固なもので、何年も籠城にも耐えられたと考えられる。
それにもかかわらず、豊臣勢が小田原城を包囲してから、わずか3ヶ月もたっていない、1590年(天正18年)7月5日に開城した。
こうした経緯からも、小田原城に籠る後北条勢の戦意を喪失させた象徴として、石垣山城に一夜城の伝承が作られたのではないだろうか。

総評

豊臣秀吉が1590年(天正18年)に行った小田原攻めにおいて、その本拠として築かれたのが石垣山城であった。
石垣山城は一夜にして築かれ、それを目の当たりにした後北条勢は戦意を喪失し、小田原城は開城したとする伝承をもつ。
本稿では、一夜城の伝承の背景について文献史料を基に探究し、次のことを明らかにした。すなわち、石垣山は、実際には約80日かけて築かれたが、前面の樹木を一気に切り払ったことで、一夜にして巨城が築かれたように見せたこと、そのことが後北条勢の戦意を喪失させたこと、などである。
一夜城の伝承は、石垣山城の築城当時から、小田原攻めに参加した武将らの間で当然のことであったのであろう。


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<主な参考文献>
小田原市 1995年『小田原市史』別編 城郭
神奈川県 1975年『神奈川県史』資料編3 古代・中世
田代道彌 1977年「石垣山一夜城」『日本城郭体系』第6巻

(寄稿)勝武@相模

石垣山城「築城の謎」~発掘調査の成果から築城背景を探る~
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