三仏寺城について、歴史及び構造など
【三仏寺城跡】
さんぶつじじょうせき。
【所在地】
高山市三福寺町井之上他
【築城年代】
平安時代(保延・平治の頃・1135年~1141年及び1142年)
【築城者】
平 時輔
【形態】
山城
【遺構】
曲輪
【概要及び歴史】
三仏寺城跡は、飛騨国最古のお城になります。
城跡は搦手口から遊歩道が整備されて
本丸まで続いています。
なお、本丸よりも、南出丸の方が
眺めが良いとの事です。
飛騨高山城(正面)や松倉城(右手)や鍋山城(左後方)が
良く見渡せるとのことです。
(草木が生い茂っていない時)
【地理】
三福寺部落の背後に位置し、
北に向かって延びる城山(標高660メートル)
の山頂に築かれた山城です。
尾根に設けられた4ヶ所の平地が
主要な遺構となっています。
三福(みさき)神社の
かなり東方から登る道が大手で、
尾根に出てから右に登りつめた奥の平地が
本丸跡であるとされています。
また、城の麓にある歓喜寺からも
遊歩道があるとのことです。
また搦手はその西側、とのことです。
【築城は平安時代の末】
平安時代の末に築かれました。
保延時代(1135年から)、永治(1142年)の頃には
平時輔が飛騨守として
この城に在城していたとされています。
平時輔から3代目にあたる平景則の頃からは、
飛騨は平家の領国となっていたとされています。
4代目となる平景家は4人の子息と共に
京へ上がっていましたが、
治承5年(1181年)、
源義仲の軍に攻められ落城し、
平景家の正室である阿紀伊の方と
2子で城主である平景綱の娘である
鶴の前は行方知れずとなってしまったとのことです。
水面の義仲勢は侵攻の理由の一つとして、
飛騨の良馬を求めたといわれています。
【鎌倉時代】
弘安(1278年から1288年)のころには、
地頭の藤原朝高、畑六郎左衛門、藤原安高が
在城したと伝わっています。
【室町時代~戦国時代】
大永元年(1521年)頃、
畑安高は、三仏寺城を
三木直頼に明け渡し、
畑氏は江名子の畑館に移ったとされています。
そしてその後は、
三木氏が在城します。
天文16年(1547年)、
三木家臣平野右衛門尉が入城しましたが、
その子である安室(あんじつ)のとき
鍋山城に転じ、三木直頼の息子である
三木直弘が入城しました。
永禄7年(1564年)、
武田の武将である山県三郎兵衛が飛騨へ討ち入り、
三木直弘は城に火をかけ、
桜洞の本城へ退きました。
以後、三仏寺城は廃城となった模様です。
【城の下にある歓喜寺】
三仏寺城の下にある歓喜寺は、
飛騨高山藩の4代目藩主である金森直頼が、
照蓮寺十三世宣明の子である
治部卿のために建てた寺とのことです。
裏山に珍しい木地師の集団墓地があります。
木地師の集団墓地は、
ここと東山寺院群宗猷寺の
墓地との2ヵ所だけであるとのことです。
【交通アクセス】
【車】
<東海北陸道>
飛騨清見IC⇒国道158号線
【駐車場】
お城専用の駐車場はありません。
歓喜寺に駐車スペースがあります。
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