飯田城の場所・構造について
【飯田城】
飯田城(いいだじょう)は、
長野県飯田市にあった日本の城です。
江戸時代には飯田藩の藩庁が置かれていました。
【所在地】
〒395-0034 長野県飯田市追手町2丁目641−30
【別名】
長姫城
【形態】
平山城
【築城主】
坂西氏
【築城年】
13世紀初めか?
【標高(比高)】
490m(50m)
【主な城主】
秋山信友、毛利秀頼、
京極高知、小笠原氏、脇坂氏
【廃城年】
1871年(明治4年)
【遺構】
石塁・空堀・土塁
【市指定文化財】
桜丸御門
八間門
薬医門(経蔵寺山門)
桜丸西門(雲彩寺山門)
脇坂門
【構造】
構造
城は天竜川の支流の松川と
野底川にはさまれた
河岸段丘の先端部分を
利用して築かれた平山城です。
縄張りは、城郭の東部にあたる
段丘の突端付近に本丸を置き、
裏側に山伏丸、
断崖に面して西部に向かって、
表側に二ノ丸、出丸、桜丸(藩主の居館)、
三ノ丸を重ねて、曲輪を配していました。
建造物としては、東西南北100mの規模で
土塀に囲まれた本丸御殿を中心に、
7棟の建物が建てられていました。
このように段丘を堀で刻んだ
伊那谷らしい城ですが、
いくつもの桝形虎口を設けた安土桃山時代の城郭で、
惣構えを設けて城下町を取り込んでいます。
【現在】
本丸⇒長姫神社の境内
二の丸⇒飯田市美術博物館及び駐車場
桜丸⇒県合同庁舎
尚、長姫神社の手水は温泉が出ているそうです。
【交通アクセス】
【電車】
JR飯田線「飯田」駅から徒歩15~20分程度
【車】
中央自動車道「飯田」IC⇒国道153号線
【駐車場】
市立美術博物館
訪問した時は「消費生活センター」
の駐車場に停めさせて頂きました。
飯田城桜丸御門(赤門)について
飯田城桜丸御門は桜丸の正門であり、
塗られた弁柄の色から
「赤門」とも呼ばれています。
宝暦3年(1753年)8月に工事が開始。
宝暦4年(1754年)に完成しました。
屋根は入母屋造であり、
妻飾は狐格子と蔐懸魚(かぶらげぎょ)としています。
間口の中央に2枚の開板戸があり、
下の写真では向かって右側より、
小さなくぐり板戸がつけられています。
門の脇には別屋根が架けられた番所が
突きだしていますが、
このような例は長野県唯一だそうです。
飯田城に関連する建築物としては、
唯一、桜丸御門だけが
建築当時と同じ場所に所在しています。
長野県で建築当時と
同じ場所に所在する城門は、
小諸城の大手門と三の門(ともに国の重要文化財)、
上田城の藩主居館表門(上田市指定文化財)、
飯田城の桜丸御門の4例のみです。
明治時代の廃藩置県後には、
飯田城の構造物の大半が取り壊されましたが、
桜丸御門は取り壊されずに済みました。
飯田県庁舎、筑摩県飯田支所、
下伊那郡役所、下伊那地方事務所の
正門として用いられていました。
1971年(昭和46年)に、
長野県飯田合同庁舎が完成すると、
通用門としての役目をは終わりましたが、
地元の要望でそのまま保存されました。
1985年(昭和60年)には土台や塀の修理、
色の塗り替えなどの大改修が行われ、
同年11月20日には
飯田市有形文化財に指定されました。
その時から扉が開けられることは
一度もありませんでしたが、
桜丸御殿の夫婦桜が
見ごろになるのに合わせて、
1999年(平成11年)3月には
14年ぶりに開門されたということです。
桜丸御殿の夫婦桜
飯田藩初代藩主の脇坂安元
(飯田藩主1617年-1654年)は
無類の桜好きでした。
「弥陀の四十八願の桜」として
飯田藩内の寺院や祠に
多数の桜を植えています。
嗣子である脇坂安経の死後、
脇坂安元が養子として
脇坂安利を迎えた際には、
御殿の庭園の中心に2本の桜を植えました。
「娘と婿殿の婚礼のために植えるのだから、
仲良く近くに植えた方がいい」との配慮から、
2本の桜を近くに植えたのでした。
脇坂安元や庭師は2本とも
シダレザクラであると思い込んでいました。
実は片方がシダレザクラ、
もう一方は(枝垂れない)エドヒガンでした。
近くに植えすぎた2本の桜は
次第に根元が結合し、いつしか
「夫婦桜」(めおとざくら)
と呼ばれるようになりました。
1本の桜が2種類の花を
咲き分けているように
見えるのが特徴だそうです。
シダレザクラとエドヒガンの2種が
合体しているのはとても珍しいとされています。
2012年時点の推定樹齢は400年。
高さは20メートル、
根元の幹回りは10メートル、
とのことです。
飯田城の歴史
【坂西氏(ばんざいし)】
13世紀初めに飯田で勢力を持つようになった
坂西(ばんざい)氏により築かれたと伝わります。
坂西氏ははじめ松原宿(飯田市上飯田)
のあたりに住居をおき、
のちに飯坂(飯田市愛宕)に
愛宕城(飯坂城)を構えました。
坂西氏の出自ははっきりとはわかりません。
地頭として飯田に来たと言われていますが、
南北朝時代まで飯田郷の地頭は
阿曽沼氏であり、
坂西氏は庄官ですらなかった
可能性があるそうです。
天正10年に滅んだ一族であるので
今では資料など一切残っていません。
四国阿波の坂西氏と、
どんな関係があるのかはわからず、
阿波守護であった
小笠原氏と何らかの
関係があったとも考えられています。
【飯田城を築城】
室町時代に入り
坂西氏はより広い用地をもち
展望のきく要害の地を求めて、
飯田城を築いて移ったとされています。
このときその地は山伏(修験者)の
修行場となっていたので、
愛宕城の土地と交換したと伝わっています。
【小笠原氏説】
江戸時代の地誌書によれば、
坂西氏の初代は
信濃守護小笠原貞宗の三男宗満(むねみつ)で、
貞和年中(1345~1350)に
城を築いたとされています。
その子孫である坂西政忠(1393~1464)が
「松原の城」と愛宕神社の土地を
交換したと言われています。
【四国阿波坂西の近藤氏説】
別の地誌書によれば、
阿波国坂西の近藤周家が
源頼朝の命により飯田の地頭になり、
建久6年(1195)、
「飯坂」の地に居館を構えました。
近藤周家の孫である
長門守(ながとのかみ)が、
山伏の修行場であったところを城とし、
換わりに飯坂の地を
山伏にあけわたしました。
そこが愛宕神社で、
飯田城の本丸奥が
山伏丸とよばれるのは
その由来によるものとも
いわれているそうです。
【坂西氏の登場】
坂西氏は、永享12年(1440年)の
関東地方の合戦に登場し、
室町時代中頃に書かれた物語では
これにさかのぼる応永7年(1400年)、
長野市でおきた合戦にも
その名が記されているとの事です。
宝徳4年(1452年)以降は
諏訪大社の記録類にも
たびたび登場するようになります。
従って、室町時代中頃には
飯田の郷主となっていたと
みられています。
永正6年(1509年)には
風越山山頂に
白山社奥社本殿を
建立したことが知られています。
【武田氏時代】
1554年(天文23年)、
武田信玄が下伊那に侵入して支配します。
武田氏は大島城とともに飯田城を
下伊那の拠点として整備しました。
けれども、武田氏侵攻の直後は
坂西氏が飯田城主であったようです。
永禄5年(1562)に、
坂西長忠が小笠原氏の領地を侵して
小笠原氏に討ち取られる事件が発生します。
この後に武田家重臣秋山虎繁が
城代として入城したと
江戸時代の歴史書は伝えています。
元亀4年(1573年)、秋山虎繁が
美濃の岩村城(岐阜県恵那市)へ入城すると、
飯田城には坂西長忠の弟である
織部亮(おりべのすけ)が入城しました。
武田氏は天正3年(1575年)の
長篠の戦いで織田・徳川軍に大敗しますが、
その直後、坂西氏は武田氏から離反し、
多くの人物が処刑されています。
同時に織田軍が下伊那へ攻め入ることを
想定した防衛策を指示しています。
それによれば、
高遠城と大島城を重要な拠点として、
伊那谷の武将の配置先などの
具体的な指示です。
けれども、現在残っている史料には、
飯田城は記載がありません。
武田氏は南三河国に侵攻するため
高遠・大島・飯田を拡張して
重要な本拠地としたので、
飯田城には武田氏式築城様式が残っています。
【激動の時代、飯田城の攻防】
天正10年(1582年)、
織田信長は武田氏を滅ぼす作戦を開始し、
木曽谷・伊那谷から侵攻を始めます。
下伊那では、下条氏・小笠原氏が相次いで
織田軍に下ります。
2月14日、梨子野峠から
織田軍先陣を招き入れます。
これを見た飯田城の城将、
坂西織部と保科正直は
この日の夜に退却しました。
続いて大島城も落城し、
武田氏は3月11日に滅亡します。
織田信長は3月15日に飯田城へ入り、
17日に飯田を立ちます。
甲斐信濃を平定した織田信長は、
伊那郡を毛利秀頼へ与えます。
けれども、6月2日に本能寺の変で
織田信長父子が殺されると、
武田旧領は、徳川家康、北条氏政・氏直、
上杉景勝の三者が乱入し、
地元の武将も巻き込んだ争奪戦となります。
下伊那の大半は下条信氏が押さえ、
徳川家康に属しました。
しかし、諏訪・上伊那は北条氏につく者が多く、
8月には飯田近辺にも北条軍が出没し、
下条氏ら徳川軍は飯田城で籠城しています。
この争いは10月末に徳川と北条の
講和によって終結しました。
下伊那は、徳川家臣菅沼定利が郡代となり、
知久平に城を築きました。
下条氏は小笠原氏との私戦に敗れ、
さらに陣中で不始末をとがめられ、
美濃へ逃れたそうです。
下条氏を追い出した菅沼定利は、
天正14年(1586年)の終わりから
翌年初めにかけて
飯田城へ移ったと見られており、
下伊那支配の拠点として
整備したとみられます。
なお、この頃の飯田城には、
部分的に石を積むことはあっても、
城門や堀の全体を
石垣で覆うことはなかったそうです。
また、屋根に瓦が使われることも
なかったとのことです。
【近世城郭へ、江戸時代】
天正18年(1590年)、
徳川家康が関東へ国替えになりました。
飯田城へは豊臣家臣である
毛利秀頼が再び入ります。
飯田城は伊那郡の拠点となり、
城と城下町が拡大されたとみられます。
江戸時代に記されたとみられる
「飯田町旧記」には、
これまでの飯田城は
山伏丸・本丸・二ノ丸まででした。
毛利秀頼が三ノ丸とその西に
追手門を設けたと記されているそうです。
また、それまであった伊勢町や番匠町に続く、
本町などの城下町を建設したことが記されています。
文禄2年(1593年)に毛利秀頼が死去。
娘婿の京極高知が跡を継ぎ、
後に10万石に加増されます。
城下町の建設も進み、
神の峰城下の知久商人を
移住させた知久町、
松尾の町人が移った松尾町、
名残町(伝馬町)など造られました。
文禄5年(1596年)には、
町屋を碁盤の目のような町割りとし、
城下町全体を惣堀で囲みました。
この頃から城には大きな石で石垣が築かれ、
追手町小学校の東側、
水の手御門にその石垣をみることが
できるとのことです。
また、城門などの大切な建物には
瓦が乗せられるようになり、
二ノ丸の正門が松尾に移築されて残っています。
慶長5年(1600年)、
小笠原秀政が飯田に入り、
慶長18年(1613年)、
小笠原秀政が松本へ移ると、
飯田藩は幕府直轄地となり、
小笠原秀政の家老が在城しました。
元和3年(1617年)に脇坂安元が入り、
脇坂氏の時代に城下町を取り囲む
惣構えが完成したといわれています。
脇坂氏は伝馬町を整備し、
惣構えの外に桜町が新たに造られました。
寛文12年(1672年)、
城主が堀氏にかわり、
堀氏が幕末まで飯田藩を治めたということです。
【廃城へ、明治時代】
堀氏は徳川幕府派であったため、
明治維新の後に飯田城は
徹底的に破壊されてしまいました。
建物は解体され、石垣は崩され
堀は埋められてしまいました。
現在も見ることができる
遺構は多くありません。
赤門と親しまれている桜丸御門や、
安土桃山時代の石垣の一部、
堀の痕跡が現地で残されています。
また市内には、
二ノ丸御門であった八間門をはじめ、
飯田城の城門だった
経蔵寺山門、桜丸西門(雲彩寺山門)、
馬場調練場の門(脇坂門)が移築されています。
※下の写真は愛宕城跡(飯坂城跡)とされている場所です。
飯田の城下町
飯田は、三州街道・遠州街道
大平街道・伊那街道の起点となっています。
城下町の外側には惣構えが設けられ、
街道の出入り口には桝形や
木戸が設けられており、
惣構えの内側は寺院が多く集められています。
城下町は谷川を境に
南町と北町に大きく分かれています。
竪の通りと横町によって
長方形に区画された町並みが特徴で、
南町に13町、北町に5町がありました。
北町が主に三州街道の
宿場町の機能を担ったとされています。
問屋は伝馬町と桜町にあり、
月初めの10日は伝馬町が、
残り20日は桜町が
伝馬役を務めてたとされます。
街道の集まる飯田の町は、
近郷の百姓が中馬と名乗り、
荷を運んだことから、
出馬千匹入馬千匹と
いわれるほどの賑いがあったそうです。
また、城主脇坂氏以来、
茶道が盛んな土地柄であることから、
和菓子作りが盛んになり、
現在でも多くの和菓子屋が店を構えています。
飯田の町はたびたび大火に
見舞われていましたが、
間口の狭い間取りに
海鼠壁(なまこかべ)の城下町の
風情が良く残っていました。
けれども、昭和22年4月の大火では、
飯田市街地の大半が焼失し、
城下町の町並みが残念ながら
失われてしまいました。
これを機に、市民が自らの土地の一部を提供し、
町屋の境に避難用道路である
「裏界線(りかいせん)」が設けられ、
復興事業で防火帯道路が設けられると、
地元の中学生によって
並木としてりんごが植えられました。
裏界線とりんご並木は、
飯田市のシンボルともなっています。
<海鼠壁>
平らで四角い瓦を張り並べ、
継ぎ目を漆喰(しっくい)と
呼ばれる白い材料で盛り上げた壁のこと。
土蔵などによく見られる。
※下の写真は「お菓子の里 飯田城」です。
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