木下藤吉郎(きのした-とうきちろう)とは、戦国時代に武将となった羽柴筑前守(羽柴秀吉)の前名であり、のちに天下を統一した豊臣秀吉の若い頃の名前です。
木下藤吉郎が生まれたのは尾張・中村とされ、父は織田家に仕えていた足軽とされる木下弥右衛門と言われます。
諸説ありますが、足軽と言うよりは「半士半農」、すなわち、いつもは農民なのですが、合戦になる際には駆り出された農民の家に生まれたようです。
ただし、最初から「木下」と称しているのが正しいと言う事になると、農民の中では豪農クラス(名主)だった可能性があります。
母は、のちに大政所と呼ばれますが、実名は仲(なか)であるともされます。
木下藤吉郎が8歳前後の頃に、父・木下弥右衛門が亡くなったため、母・なかは、竹阿弥(ちくあみ)と言う織田信秀の同朋衆と再婚しました。
同朋衆(どうほうしゅう)と言うのは、合戦に同行した陣僧(お坊さん)と考えられます。
通説では、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長、妹・旭(駿河御前)の実父は、竹阿弥だとされます。
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いずれにせよ、木下藤吉郎の若い頃の状況や父などに関しては、よくわかっておらず、諸説あることを今一度ご確認申し上げます。
竹阿弥とは関係が良くなかったようで、木下藤吉郎は15歳の頃に「武士になりたい」と、ひとり家を飛び出します。
一説には収入を得るため「針」(ハリ)を売り歩いていたとも言いますが、尾張から流れて遠江に行ったようです。
そして、今川義元の直臣である飯尾氏の配下にいた、頭陀寺城主・松下之綱の家来になりました。
それから2~3年後には、松下家も飛び出したようで、1554年頃から織田信長に小者として仕えるようになったとされます。
有名な話では、最初は「草履とり」(ぞうりとり)として、織田信長が出かける際に、玄関に草履を用意する役目を果たしたとあります。
そして、冬の寒い日に、草履を懐にて暖めておいたのが評価され、次第に織田家中にて頭角を現して行くと言うのが、一般的な話になっています。
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以上にて、1分でわかる木下藤吉郎は、おしまいです。
その後の活躍に関しては、下記の記事などをご参照賜りますと幸いです。
・豊臣秀吉の詳細解説 農民の木下藤吉郎が天下を取れた理由
・羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)~下層民から天下人~の生涯を手短に!
・豊臣秀吉の出身地「尾張・中村」をわかりやすく解説~中村公園の史跡みどころ
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