横須賀市の衣笠には、衣笠城、佐原城、大矢部城、小矢部城のほか、三浦一族の史跡がまとまっています。
この記事では、下記の4項目に関して、交通アクセスから周り方などをご案内したいと存じます。
清雲寺・三浦氏三代の廟所
衣笠の清雲寺は、平安時代の1104年に、三浦氏(三浦党)の2代・三浦義継が、建立した寺で、現在は、臨済宗円覚寺派に属しています。
初代・三浦為通の子が三浦為継で、鎌倉景正とともに源義家に従い、後三年の役にて武功を挙げています。
清雲寺は、比較的、こじんまりした佇まいでして、鎌倉のお寺さんのような印象を受けました。
清雲寺には、国指定重要文化財である木造観音菩薩像(瀧見観音)が安置されているようです。
境内では、清掃されている方がおられましたので「おはようございます」とご挨拶して、見学させて頂きました。
本堂の右手を奥に進みますと、1段高い、物見台のような地形の場所があります。
そこに、3基の五輪塔が並んでいました。
中央が三浦為継、右は3代・三浦義継、左が三浦氏の始祖・三浦為通の墓とされます。
なお、三浦為通の開基である円通寺跡にあったのを、移したようです。
三浦為継と三浦義継の墓も、別の場所にあったようですが、昭和14年(1939年)に、海軍用地になったため、この清雲寺に移されたとの事です。
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清雲寺の印象としては、平山城のように思えます。
平安時代のお寺さんですので、ひょっとしたら、初代の三浦為通の屋敷跡で、衣笠城方面に屋敷を移して、不要になったところに、三浦義継が清雲寺を建てたのかな?とも感じたしだいです。
清雲寺の駐車場ですが、道路の路肩に4台ほどありました。
ただし、山のうえであることから、その路肩部分は、急坂になっておりました。
また、道路も狭めですので、正直、あまりクルマを止めたくない場所と言う印象です。
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できれば、徒歩で訪れますと、現地の雰囲気もよくわかり、楽しめるかと存じます。
満昌寺・三浦義明廟所
衣笠の満昌寺(まんしょうじ)は、鎌倉時代初期の1194年に、三浦義明が開基した寺院になり、現在は臨済宗建長寺派に属しています。
ただし、三浦義明は、1180年の衣笠城の戦いにて、亡くなっていることかせ、実際の開基は三浦義澄です。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、その過程で犠牲となった三浦義明の菩提を弔うべく、三浦大介義明を開基として、満昌寺を創建したのでした。
吾妻鏡によると、1194年9月24日に、源頼朝は仲原仲業に対して、三浦・矢部郷の候補地検分を命じています。
下記の本堂前にある躑躅(ツツジ)の木は、源頼朝お手植えとされています。
庭園も見事なようですが、普段は非公開となっています。
通例ですと、毎年11月3日だけ、文化財特別公開として、特別に公開されるとの事です。
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三浦義明坐像は、国の重要文化財に指定されています。
吾妻鏡によりますと、1197年8月27日、源頼朝は三浦義明のために自ら建立した満昌寺に参拝しています。
そして、御家人らに命じました。
「三浦義明は忠功無二の旧臣であり、今日墓前に立つと生前の姿を思い出す。御霊明神として敬うように。」
本堂の左手に階段があり、その階段を登ったところに御霊神社宝物殿があります。
御霊神社(ごれいじんじゃ)じたいは、1212年に、和田義盛が創建したと伝わります。
ちなみに、江戸時代の初期、三浦一族・安房正木氏になる正木頼忠の娘・お万の方(蔭山殿)が、伊豆韮山代官である江川太郎左衛門の養女になっており三島本陣での宴席で徳川家康の目にとまります。
そして、水戸藩主となる、徳川頼房を産みました。
なお、江戸時代の1749年に、三浦義次(三浦志摩守義次)が満昌寺を再整備しました。
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御霊神社宝物殿は、見学不可なのですが、その建物右から奥に進んだところに、三浦義明の首塚といわれる宝篋印塔がありました。
2019年の台風15号で、被害を受けた墓所ですが、見事に復活していたのは、ご住職のご尽力をはじめ、地元の皆様などの浄財もあったこととお察し申し上げます。
真ん中が三浦義明の宝篋印塔、右の五輪塔は、三浦義明の妻(秩父重綱の娘)の供養塔、左奥に板碑(いたび)が一基ありますが、関東での死者を追善したもののようです。
その手前には、江戸時代の1749年に、三浦志摩守などが修復した際に、設置した灯篭があります。
見学だけのために駐車場を利用して良いのかは、わかりませんが、山門より西側のほうに、満昌寺の駐車場がありました。
薬王寺旧跡・三浦義澄公墳墓
薬王寺旧跡、すなわち、かつて、薬王院と言う寺院があった場所に、三浦義澄の墓があります。
現在は、住宅地になっており、道路も軽自動車が通れるかどうか?と言う、狭い道になっています。
下記の場所から、住宅と住宅の間を入ります。
三浦義澄(みうら よしずみ)は、三浦義明の次男で、跡を継いでいました。
鎌倉幕府においては、13人の合議制のひとりに加わっています。
薬王寺旧跡・三浦義澄公墳墓の付近は、道路も、かなり狭いため、徒歩が賢明です。
腹切り松公園
腹切り松公園は、1180年、衣笠城の戦いの際に、三浦義明が、切腹した場所とされます。
三浦義明は、衣笠城を出て、逃れようとしたのか、何があっても、止まることがなかった愛馬が、ある一本の松の木の下で止まってしまい、動かなくなった言う伝承になっています。
そのため、三浦義明(三浦大介義明)は、これは天命だと受け止め、松の木の下で、切腹して果てたと言う事です。
その松は腹切り松と呼ばれ、現在は場所が移転していますが、児童公園「腹切り松公園」の一角に史跡として保存されております。
交通アクセス
ご紹介している各史跡場所などは、当方のオリジナル関東地図にてポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。
衣笠城への行き方ですが、電車・バスの場合、京急横須賀中央駅から、長井方面行バス「三崎口駅行」「長井行」他に乗車して所要20分、衣笠城址バス停下車となります。
徒歩にて上記4箇所を周りますと、観光所要時間は約60分となります。
時間が許せば、衣笠城なども、セットでどうぞ。
クルマの場合には、コインパーキングなどに止めて、徒歩にて周ることをお勧め致します。
・三浦義澄のちょこっと解説~最初から源頼朝を助けた最大勢力(鎌倉殿の13人)
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