Contents (目次)
河村城と河村館
神奈川県山北町に所在する河村城は、中世城郭として希少な特徴を2点持つ。
一つは平安時代末期の築城から戦国時代末期に廃城となるまで約400年の歴史を誇ることである。
このことについては以下にまとめてあるので、こちらを参照していただきたい。
・河村城の歴史をよむ~平安時代末期から戦国時代末期までの変遷~
二つ目は、河村城の麓には室町時代末期から戦国時代初期に造られたと考えられる、河村館(やかた)が所在し、いわゆる山城(詰の城)と館がセット関係になっていることである。
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本稿では河村城の縄張りを確認し、麓の館についても地名や発掘調査の成果から明らかにし、詰めの城と館の関係について探究する。
河村城の縄張り(構造)
現在、河村城一帯は蜜柑畑や植林地となっており、遺構の残りは比較的良好である。
城跡へのアクセスは、JR御殿場線山北駅から北側の改札を出て西方商店街を過ぎ、町立体育館近くで線路の陸橋を渡り、国道246号線をくぐると盛翁寺に着く。
寺の脇から急坂を登ると本丸に至る。
河村城の縄張りは、本城郭を中心として、東方に蔵郭・近藤郭・大庭郭が、北方に二本の堀切を隔てて茶臼郭が、南と西側に馬出郭や北郭・西郭・水郭などが配置されている。
各郭の概要は次のとおりである。
【本城郭】東西60m、南北100mほどの平坦地で北に向かって次第に狭まる。
【茶臼郭】本城郭より8m低く、東西約20m、南北約82mの広さで、西側に二段の腰郭がある。本城郭との間には、幅が各17mの二本の堀切があり、それらの間には三角状の小郭がある。また東側の下にある「お姫井戸」は、落城時に城主の姫が身を投じた所と伝えられている。
【馬出郭】本城郭より一段低く、長さ約50m、幅約22mで南に向かって鍵型に折れ曲がっている。なお馬出郭の西側には「新編相模国風土記稿」に記載されている西郭、その北側には北郭がそれぞれある。
【蔵郭】本城郭より東方の浅間山に続く尾根上にあり、長さ70m、幅20mの東西に細長い郭である。
【近藤郭】東西45m、南北42mで東端部が狭く、「新編相模国風土記稿」所収図には、この場所に「御櫓」とある。
【大庭郭】本城郭よりやや高い位置にあり北側に張出しを持つ。面積も最も広大であるが、郭の輪廓ははっきりしない。浅間山との間に幅15mの堀切があり、これが河村城の東側の境界となっている。
現在の河村城の遺構の大部分は、後北条氏時代の戦国時代末期のもので、特に蔵郭と近藤郭の間にある畝堀(うねぼり)構造の大堀切から西側は、緊密・堅固な造りとなっている。
一方、東側の大庭郭周辺部については、古絵図では「大手」を大庭郭張出し部分の南東に置いており、そこから南下方の岸地区には河村氏時代、一族の居館があったとされている。
河村城の調査
河村城では1990年(平成2年)から発掘調査などが継続的に進められており、1992年(平成4年)には茶臼郭と小郭、近藤郭両側の堀切2ケ所の全面発掘により、堀切が畝堀であることが確認された。
大庭郭周辺部については、大庭郭や蔵郭、近藤郭、その間の堀切から国産陶器や貿易陶磁器、かわらけが出土しており、特に大庭郭、次いで蔵郭から貿易陶磁器が多く出土している。
出土遺物の年代は、大庭郭の東側で15世紀前半、西側ではそれよりやや新しいもの、そして蔵郭では15世紀後半のものが中心である。
これらのことから、15世紀前半までは大庭郭が河村城の中心部であり、その後、西側の蔵郭へという城の変遷を追うことができる。
山麓の館の調査
1992年度(平成4年度)~1995年度(平成7年度)にかけては、河村城関連遺跡の調査が行われ、その中で岸地区の字「土佐屋敷」に設定した調査区において中世の居館の跡が発見された。
この調査区は浅間山の南東麓、標高約110mの河岸段丘上にあり、古くから土佐屋敷・秀清屋敷などの居館の存在が伝えられていた。
調査の結果、2条の館堀(館をめぐる堀)をはじめ、柱穴、土壙(どこう)、溝状遺構など建物に関連する遺構が検出された。
遺物については、土壙(どこう)から一体の成人男性の骨とともに、六文銭(北宋銭5枚と南宋銭1枚)、明銭、刀子、鉄釘などが出土し、人骨の下部からも明銭1枚が出土している。
土壙以外からも北宋銭・南宋銭・明銭などの古銭の他に、鉄釘、青磁・白磁・かわらけの破片などが出土し、いずれも15・16世紀のものである。
これらの調査成果から、岸地区の字「土佐屋敷」に有力武士層の居館が存在したことが明らかとなった。
まず、『新編相模国風土記稿』掲載の「河村城古図」には「土佐屋鋪今に此名あり、田畠、東西七十九間南北六十一問、堀深サ一丈、幅二」、また「秀高身内川邑四郎秀清屋鋪、東西七十九間南北五十三間、堀深一丈三尺、幅二間半」などの記載がある。
検出された2条の堀はこの「土佐屋敷」か「秀清屋敷」のいずれかに関連するものと考えられる。
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また、調査で3ケ所から建物遺構の一部が検出されたが、そのうち一つの建物は少なくとも8間分の柱穴を伴い、総柱の形態で庇(ひさし)も付いていたと考えられ、館の主屋に相当する建物であることが推定される。
さらに、北宋銭や明銭、青磁・白磁など希少な遺物が出土しており、この場に15・16世紀に有力武士層の館が存在したことを裏付けている。
山城(詰の城)と河村館
中世において有力武士層は、平時は山麓の館で日常生活を送り、戦時になると最後の拠点となる山上の山城(詰の城)に籠ることを行った。
『太平記』には「防ぐ兵若干(そこばく)打たれて、攻(つめ)の城(じょう)へ引籠る」とある。
河村城と河村館も山城(詰の城)と館がセットの関係になっており、その状況を発掘調査により確認できたことは、全国的にもあまり例をみない貴重なことである。
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ただし、「河村城古図」にみえる河村秀高・秀清は平安時代後期の人物であり、調査で検出された館の年代観は15・16世紀である。
河村館が平安時代後期から存在したのか、今後の調査に期待したい。
<参考文献>
山北町教育委員会 1992『河村城跡-河村城跡遺跡詳細分布調査報告書-』
山北町教育委員会 1996『河村城関連遺跡-河村城関連遺跡詳細分布調査報告書-』
山北町教育委員会 1996『河村城跡茶臼郭周辺遺跡-河村城跡茶臼郭周辺遺跡発掘調査報告書-』
山北町教育委員会 2007『河村城跡-神奈川県指定史跡河村城跡史跡整備に伴う発掘調査』
(寄稿)勝武@相模
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