高山友照(高山飛騨守友照)は、戦国時代のキリシタン大名として名を馳せた高山右近の父であり、高山右近がキリスト教に改宗したのも彼の影響によるところが大きかったと言われています。
高山友照(たかやま-ともてる)は、1520年代の後半に生まれたといわれ、その故郷は摂津国島下群高山村であり、現在の茨木市の山側一帯をまとめていた土豪の出身でした。
高山家はもともと一向宗の門徒であったが、高山友照はキリスト教の貧者に対する救済や奉仕の精神に深い感銘を受けたと言われています。
高山友照は最初松永久秀に仕え、土豪から城持ち大名に出世しています。
松永久秀が三好義継と共に足利将軍義輝を謀殺すると、その正義なき行動に疑念を持ち離反します。
その後、次の将軍となる足利義昭の家臣で摂津高槻一帯を治めていた和田惟政に仕え、強固な信頼関係を築きます。
ところが惟政は荒木村重との戦で討ち死にしてしまい、その息子である惟長は惟政と全く異なる人物であったためか友照との関係は悪化の一途を辿ります。
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そして友照は高槻への進出を図る村重に加担する形で家臣団を率いて高槻城に入り、和田惟長一派と凄絶な斬り合いになります。
この戦いには息子の右近も参加しており、負傷しつつも惟長に重傷を負わせて追い出し高槻城主となるに至りました。
なお惟長は一族を連れて脱出し、故郷の甲賀に向かう途中で伏見にて息絶えたようです。
次に高山友照が仕えたのは荒木村重です。
この荒木村重は惟政を討った張本人であり、本来は主君の仇であるはすですが、この辺が『敵の敵は味方』『昨日の敵は今日の友』といった戦国の世らしき現象でしょうか。
何にせよ村重のおかげで高山家は高槻一帯の領主となれたわけですが、ここで大事件が勃発します。
村重がその主君である織田信長に反旗を翻し毛利方へ下ったのです。
そして高山家も村重への忠義を重んじる高山友照と織田信長に恭順の意を表そうとする高山右近とに分裂します。
結果としては天下布武を推し進める信長に敵うはずもなく村重は討ち取られ、付き従った友照は右近の必死の取り計らいにより助命され越前に追放処分となりました。
織田信長の死後しばらくは柴田勝家のもとで幽閉されていたが、やがて勝家も秀吉に討たれると、その後の友照の動向はあまりよく分かっていません。
一説にはキリシタンとして各地を転々としていたとされています。
そして1595年に没し、長崎に埋葬されました。
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高山右近は荒木村重の謀反事件が起こるまでは一貫して友照と行動を共にしていました。
親子関係は良好だったようで、右近がキリスト教に改宗するきっかけは父友照の存在であり、友照はダリオ、右近はジュストという洗礼名を授かっています。
そして当時としては類を見ない慈愛と奉仕の精神をもって高槻一帯の領地を統治しました。
(寄稿)Alphan
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