宇喜多氏と豊臣政権【宇喜多直家・宇喜多秀家親子の争い】

宇喜多氏と豊臣政権

宇喜多氏は『宇喜多能家寿像画賛』によると百済王の末裔とされていますが、南北朝期に後醍醐天皇を支えた児島高徳の子孫説、頼仁親王出自説などさまざまな説があり正確な出自は不明です。また宇喜多氏の名は鎌倉時代や南北朝時代を通して資料に登場することがほとんどなく、室町時代になりようやく中興の祖と言われる宇喜多能家が登場、能家の孫の宇喜多直家宇喜多秀家親子により宇喜多氏は全盛期を迎えます。

宇喜多直家の前半生については不明なことが多く、宇喜多興家の子供として享禄2年(1529年)に生まれたと言われています。『備前軍記』や『宇喜多戦記』によると直家は浦上宗景に従い中山氏、三村氏、松田氏などから勝利を収めて所領を拡大しますが、その後は宗景と対立。当初は、宗景が織田信長を頼ったことから直家は信長と敵対する毛利輝元から支援を受け、天正3年(1575年)10月には宗景の居城天神城を陥落させます。その後直家は毛利氏や大坂本願寺などの勢力を背景に播磨に侵攻しますが、天正5年(1577年)に織田家家臣の羽柴(豊臣)秀吉と争い敗北、織田軍が播磨にて勢力を拡大したことにより直家は苦境に陥ります。
 しかし、『信長公記』によると天正7年(1579年)9月に秀吉が信長に直家の赦免を願い出て、御朱印の交付を申し出ます。このときは信長が激怒し秀吉を播磨に追い返しますが、秀吉は以前から直家に調略を行っていたと考えられ、同年10月には直家は信長に直接謝罪を行って赦免されます。こうして織田方となった直家は天正9年(1581)2月に病没するまで備中・美作・因幡などで毛利軍と攻防を続けます。


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宇喜多直家の死により、次に宇喜多家の当主となったのは8才の宇喜多秀家です。秀家は元亀3年(1572年)に父直家、母円融院の間に生まれます。通称は八郎といい、兄弟は母の連れ子である三浦桃寿丸と3人の姉妹が確認されています。直家の没後、宇喜多家の家老たちは羽柴秀吉の取次で織田信長に謁見して家督を安堵されており、このことから宇喜多氏は信長にとって秀吉の仲介が必要な存在であったと考えられます。その後の宇喜多家中では幼い秀家のもと重臣たちの合議によって政治が行われますが、宇喜多氏は毛利氏との戦いで苦戦を強いられており天正10年(1582年)2月には八浜合戦において宇喜多軍は敗北、秀家の名代であった一族の宇喜多元家が討ち取られてしまいます。この戦況のなか同年3月に秀吉は宇喜多氏の居城岡山城に入城、同城を拠点として備中高松城へ向かいます。このときに宇喜多軍も秀吉と行動をともにしたと考えられており、その後高松城を水攻めにして包囲している秀吉のもとへ本能寺の変の報せが入ります。
 事件を知った秀吉は明智光秀討伐のため毛利氏と和睦交渉を開始します。そしてすぐに和睦を成立させた両軍でしたが、宇喜多氏の領国も含まれる備中半国と美作の領土割譲問題は棚上げされることになり、この問題は今後数年間混乱します。その後山崎の合戦にて勝利した秀吉は柴田勝家徳川家康織田信雄を破り天下人となり、秀家も秀吉の庇護の下、異例の若さで出世を遂げていきます。

宇喜多秀家は天正10年から12年(1584年)頃に羽柴秀吉の命で、前田利家の娘で秀吉の養女であった豪姫と縁組します。秀吉は豪姫のことを大変寵愛しており、このことから宇喜多氏のことを特別視していたことがわかります。また織田信長没後の天正10年の間に秀家は11才にて従5位下・侍従に叙位・任官しており、元服後に名乗ることになる秀家の「秀」の字も当然秀吉からの偏諱と考えられ、秀家は天正13年(1585年)に侍従、天正15年(1587年)に従4位下・参義、文禄3年(1594年)には従3位・権中納言に叙位・任官され、天正19年(1591年)の段階で武家で秀家と並ぶのは豊臣秀長豊臣秀次・徳川家康のみになるほど官位を昇進していきます。

その後織田家家中での地位を確立した羽柴秀吉でしたが中国地方では依然毛利氏との間で国境争いが起こっており、天正10年12月に秀吉は自身の情勢が落ち着いたら中国地方の国分けを行うと秀家に明言しています。そして羽柴氏と毛利氏は交渉の末、天正12年(1584年)に和睦が成立。宇喜多氏は備前・美作と備中東部が領国となり、播磨の一部も含まれたと考えられています。
 その後秀吉から西国の抑えとして期待された宇喜多秀家は幼くして各地を転戦、天正12年に行われた小牧・長久手の戦いでは備前衆3,000人が参戦した記録があり、天正13年3月の紀州雑賀・根来寺攻めで秀家は20,000人を率いて先陣を務めたと『イエスズ会日本年報』に記されており、秀家が堀秀政高山右近らとともに戦った記録が残っています。続いて同年の四国征伐では宇喜多軍は15,000人にて讃岐国屋島へ上陸、秀家は目付である黒田孝高・蜂須賀正勝とともにて長宗我部方の諸城を落とします。そしてその後の九州征伐では天正15年に15,000人を率いて出陣、宇喜多軍は毛利軍とともに日向国より薩摩へ侵攻、根白坂の戦いでは宇喜多家家臣戸川秀安が活躍します。島津家の降伏後は秀吉の命令により豊後・大隅・日向などの戦後処理を行い、天正18年(1590年)の小田原征伐では、前年に船手として1,000名の軍勢を率いて伊勢志摩へ着岸するよう秀吉から命じられており、その後は小田原城韮山城の後詰として着陣、箱根より徳川家康らとともに小田原へ侵攻して北条家の滅亡後は奥州仕置も担当します。


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このように軍事面で豊臣(羽柴)秀吉の天下統一を助けた宇喜多秀家は天正14年(1586年)に豊臣姓を下賜され、天正16年(1588年)4月に行われた御陽成天皇の聚楽第行幸では秀家は織田信雄・徳川家康・豊臣秀長・豊臣秀次の次に供奉、翌日に諸大名が聚楽第にて秀吉に提出した起請文では秀家は先の4名と前田利家を合わせた計6人で連署しており、もう1通の起請文では同じ内容で長曾我部元親以下23名の大名の署名が提出されていることから、この諸大名の区別が豊臣政権下での身分秩序を表していることがわかります。また秀長を除く5名は翌日の和歌会終了後に清華成を果たします、これは関白となった秀吉が武家社会に公家の秩序を取り込んだもので秀家たち5名の大名は公家化により豊臣政権で特別な地位を与えられたのです。
 その後秀家は千利休から茶道を学び、能を愛好していた秀吉の影響から能に傾倒、秀吉が禁裏にて能会を催したときには秀家も演じており近衛信尹は「思ったより見事だった」と感想を伝えています。また秀家は連歌・刀剣・鷹狩も嗜んでおり、このような芸事に関して『備前軍記』では秀家の遊興費の散財と非難しています。また宇喜多氏の居城である岡山城では改修が重ねられ、その城下町では身分による居住区の再編を行い秀家は岡山城下の経済発展に努めます。また酒といった産業の発展や干拓事業によって新たに新田村を作って家臣たちに分配しており、堤防や農業用水を普請するなどの農地整備も行っています。
 そして宇喜多氏の領内では天正17年(1589年)から太閤検地が少しずつ本格化、検地には石田三成らを奉行に行かせるケースとその家中が独自で実施するケースがあり宇喜多氏では独自で検地を行った結果、大幅な石高の加増がみられ、これは重なる戦費の負担や恩賞のために年貢による兵糧徴収を安定化させる必要があったと考えられ、その後は宇喜多氏の財政の負担となっていきます。

宇喜多秀家は、豊臣秀吉が文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)にかけて行った文禄・慶長の役にも出陣します。天正19年(1591年)2月20日岡山を出陣した秀家は秀吉により釜山への渡海を命じられ、加藤清正ら他の日本軍と合流して同年5月6日に漢城に入ります。『太閤記』によれば秀家の立ち位置は総大将とあり秀吉が豊臣秀次に伝えた今後の構想の中では、秀家を日本の関白あるいは朝鮮の統治者にする予定を立てており、他地域の統治者候補が秀吉親者で固められるなか秀家の地位が特別だったことがわかります。しかし実際は総大将といっても秀吉の代役に過ぎず決定は諸将の衆議によって行われており、秀吉は小早川隆景などの同世代の武将たちに秀家ら「若者共」に意見をいい、重しになるよう書状にて要請しています。
 その後優勢であった朝鮮での戦況は徐々に劣勢に傾き、文禄2年(1593年)2月12日秀家を総大将とする日本軍3,0000は朝鮮軍10,000人が籠る幸州山城に攻め込みますが日本軍は敗北、秀家は重傷を負ったと言われています。こうした中同年5月に秀吉は晋州城攻略の陣立を指示、この陣立は3月にも秀吉は指示しておりその中では石田三成らにくれぐれも秀家に軽率な行動がないように注意を促しています。こうして日本軍により晋州城の攻撃は開始され同年6月29日に陥落、資料によるとこの戦いで宇喜多軍は奮闘し『黒田御用記』などには宇喜多家家臣の軍功が記されています。その後水面下で明との和平交渉が始まりますが、秀吉の要求は却下され交渉は決裂してしまいます。
 慶長2年(1597年)秀吉は再び朝鮮に出兵します。秀家は毛利秀元とともに8番手の陣を任され、同年8月15日には秀家の軍勢は南原城の攻略に成功します。しかし同年12月の蔚山城の戦い以降、日本軍の戦況は再び悪化。慶長3年1月には秀家以下13名の諸将は今後の展開を協議し秀吉に戦線縮小の意見を上申しますが、激怒され却下されています。結局同年3月に秀家は帰国を許されますが、この戦いは秀吉の死まで続きます。


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豊臣秀吉は没後の政権運営のために「五大老・五奉行」と呼ばれる制度を作ります。この制度は慶長3年7月頃に設置されたと考えられ、近年の研究で五大老・五奉行は「五奉行・五年寄」や「十人の衆」と称されてたと言われており、5人の大老は徳川家康・前田利家(死後は前田利長)・毛利輝元・小早川隆景・上杉景勝(隆景の死後)・宇喜多秀家で構成されています。これまでの通説で石田三成ら奉行衆は五大老の下と考えられていましたが、近年では五大老の権限を制限するものと考えられ五奉行も大きな発言権を持っていました。
 文禄4年(1595年)7月秀吉は後に五大老となる大名たちに起請文を提出させます。それは秀吉・豊臣秀頼親子への忠誠を誓うもので、家康・輝元・隆景は豊臣政権の地方支配の委任、利家・秀家は政権内部の秩序維持を任されたと考えられ、この起請文は織田信雄ら28名の諸大名も提出していますが、秀家たちとは違い特別な権限が任されていません。そして慶長3年に入ると秀吉の体調が悪化し、同年8月5日に秀吉は遺言書と呼ばれる『豊臣秀吉遺言覚書』を残します、その内容は大老間で婚姻を行うなど後の政権運営を細かく記したもので、毛利家家臣が記した書状には毛利氏と宇喜多氏の間で秀吉が婚姻を勧めたと記したとあり、輝元には秀家の後見の役割を求めています。また同時期に残したと言われる秀吉の遺言の覚書には利家を秀頼の傅役に定め、家康に伏見で政務を利家に大阪で秀頼の補佐をするように述べられてあり、秀家に関しては幼少期から秀吉に取り立てられたので秀頼を支えることは逃れられないとして自身の死後政権を支える一員として宇喜多氏を期待していることがわかります。そして同月18日に秀吉は病没、秀家には秀吉の遺品として「初花茶壷」が与えられています。
 このように譜代の家臣を持たない秀吉にとって、宇喜多氏は当主が幼少期より秀吉に取り立てられ、また他の大名より家格が低くかったこともあり秀吉がコントロールしやすかったと考えられます。

豊臣秀吉の死後朝鮮からの日本軍撤退を完了させた宇喜多秀家たち五大老ですが、宇喜多家中では慶長4年(1599年)から慶長5年(1600年)にかけて家臣間の対立が起こり、父宇喜多直家の代から家中を支えていた家臣たちが出奔してしまいます。この騒動は1次資料に記されてるものが少なく、詳しいことがわかっていませんが、信仰する宗教の問題や、譜代と外様家臣間での争い、また家康の宇喜多家家臣団切り崩しなどさまざまな説が考えられ、宇喜多氏の領内統治の不安が内外に露呈してしまいます。
 その後慶長4年3月に前田利家が亡くなると、豊臣政権内では以前より秀吉の遺言に背く行動をしていた徳川家康と、他の五大老たち対立が表面化します。しかし秀家は表立って家康と対立していたわけではなく同月に秀家は家康に対し、秀頼を軽んじることがなければ家康に奉公を続けるという起請文を提出し、同年4月と6月に島津氏と宗氏に充てた書状には五大老の連署が確認できます。しかし慶長5年5月、領国にて統治に専念していた上杉景勝が家康の上洛要請を無視したことにより、家康は諸大名に上杉氏討伐を指示。同年6月家康は自ら軍勢を率い会津へ出陣します。秀家もこの軍勢に一族の宇喜多詮家を名代として派遣しますが同年7月5日秀家は豊国社に参詣、これは家康への決起の意思を示したものと考えられ同月7日には長束正家増田長盛前田玄以の連署で「内府ちかひの条々」が発せられ毛利輝元ら反家康勢力とともに宣戦布告します。
 こうして豊臣政権を支える諸大名が東軍と西軍に分かれたことにより五大老・五奉行の制度は崩壊、その後に発給された政権の書状では秀家は輝元らとともに二大老・四奉行(三成は引退)の連署を発行し諸大名に西軍に与するよう要請します。その後同月22日秀家は徳川家家臣鳥居元忠が籠城する伏見城攻略戦に参陣、8月1日に落城させると秀家は輝元と連署で活躍した鍋島勝茂毛利勝永に感状と金子や所領などを与えています。しかしこのとき宇喜多家では家中騒動により離脱した家臣たちが家康に従っており、彼らは元同僚である宇喜多氏家臣団に調略を仕掛けて秀家の嫡子宇喜多秀高を擁立して宇喜多氏から投降するよう勧めています。この現状に秀家は軍勢の穴埋めのために急遽人員を募っており、その結果18,000人を率いた宇喜多軍は毛利軍とともに西軍の主力となります。


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通説によると、その後起こる関ヶ原の戦いで宇喜多秀家は東軍の福島正則隊と激突しますが西軍が敗退するとわずかな家来とともに戦場を離脱。敗戦の報せを聞いて混乱に陥った宇喜多氏の領国には、徳川家康により旧宇喜多家の家臣たちが備前に送られ城を接収したと言われています。その後徳川方の追手や、落ち武者狩りから逃れた秀家は、当時まだ家康と完全な和睦を結んでいなかった島津氏を頼り薩摩へ向かいます。
 こうして薩摩へたどり着いた秀家は同地で隠遁生活を送りますが、島津氏が家康から許しをもらうと匿われている秀家の処分が問題となります。このとき島津氏は各方面へ秀家の助命運動を行っており、その結果秀家は助命されることになります。そして慶長8年(1603年)に駿河国久能へ流され、慶長11年(1606年)4月には八丈島に配流。その後の秀家は妻の実家である前田家や旧臣たちの支援のもと同地で2人の息子を含めた13名と生活、明暦元年(1655年)11月20日に病没(享年84才)します。

豊臣政権の隆興とともに全盛期を迎えた宇喜多氏は関ヶ原以後は大名としては滅亡します。しかし、宇喜多秀家没後も子孫が八丈島の地で幕末まで存続し同地では平成9年に秀家と豪姫銅像が設置されるなど、宇喜多氏の名はその後も語り継がれます。

(寄稿)kawai

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