箱根・竹ノ下の戦い「わかりやすく解説」竹之下合戦古戦場碑・竹之下古戦場

竹之下合戦古戦場碑

箱根竹ノ下の戦い

箱根・竹ノ下の戦い(はこねたけのしたのたたかい)は、1335年12月11日(旧暦)にあった合戦で、静岡県小山町竹之下周辺が舞台となりました。
昔は、地図やGPSなどありませんので、多少、険しくても、行く先(方向)を確認しやすい、高いところ(峠)を越えて行くのが、道に迷いにくい、安全なルートでした。
そのため、古代より、駿河国から相模国へ入る場合「足柄峠」(矢倉沢往還)を越えていくのが主要ルートになっており、足柄峠の坂から東を「坂東」(ばんどう)と呼びました。
ヤマトタケルの東征(日本武尊)でも、足柄峠(標高759m)からヤグラノダケ(矢倉岳・標高870m)に登って、サガムのオノ城(厚木市小野)を遠望したとされています。
その後、坂上田村麻呂など、日本の歴史において、幾度も軍勢は足柄峠を越えて関東に進入しましたが、その足柄峠の駿河側の麓に位置するのが、竹之下になります。


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1333年、後醍醐天皇が隠岐を脱出して船上山にて鎌倉幕府打倒の兵を挙げます。
鎌倉勢として上京した足利尊氏も、反鎌倉となり、赤松則村や千種忠顕らと、鎌倉幕府京都の拠点・六波羅探題を滅ぼしました。
一方、上野国で挙兵した新田義貞は、源氏の武将を加えて大軍となり、稲村ヶ崎から鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を滅ぼし、鎌倉幕府が滅亡しました。
そして、京に戻った後醍醐天皇は、天皇が自ら政治を行う「建武の新政」(けんむのしんせい)を開始しますが、恩賞などの問題でかなり混乱しました。
鎌倉幕府を倒した功労者である足利尊氏は、自ら幕府を開いて政治を行うつもりでした。
また、実際に鎌倉を攻めて、北条高時らを自害に追い込んだ新田義貞も、京都では足利尊氏のほうが人気になっており、不満が残ります。
そんな中、後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよし-しんのう)も、長年、楠木正成らと連携して、鎌倉幕府の倒幕に大きく寄与していました。
その後も、足利尊氏を牽制するため、信貴山に留まる中、護良親王は征夷大将軍に任じられ、足利尊氏は鎮守府将軍となりました。
この3者の思惑の中、護良親王は、足利尊氏を警戒することを辞めず、ついに、護良親王は、兵を集めて足利尊氏討伐の軍を起こします。
後醍醐天皇は、足利尊氏から疑われるのを嫌い、護良親王を捕らえると、足利尊氏に引き渡したとされます。(護良親王に、帝位を奪われるのを警戒したとも・・。)
1334年、護良親王は、鎌倉将軍府の足利直義に預けられました。


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そんな折り、1335年、北条高時の遺児・北条時行諏訪頼重・諏訪時継や滋野氏らが擁立し、北条家の残党らが挙兵し「中先代の乱」が起きます。
武蔵・府中で小山秀朝を破るなどして、井出の沢の戦いでは、足利直義にも勝利し、鎌倉を奪還しました。
なお、鎌倉に幽閉されていた護良親王は、鎌倉が落ちる2日前に、淵辺義博が殺害しています。
この北条時行の反乱を鎮めるため、足利尊氏は後醍醐天皇の許可を得られないまま、軍勢を鎌倉に発しました。
朝廷としても、北条時行の行動を容認できないこともあり、鎌倉に向かう途中の足利尊氏を、征東将軍に任じています。
足利尊氏は、弟の足利直義と合流すると鎌倉に入り、破れた北条時行は僅か20日程で、鎌倉から脱出しました。
そして、足利尊氏は、武功があった武将に、鎌倉にて褒美を与えるなどしたため、ついに、後醍醐天皇との対立も決定的となり「延元の乱」、南北朝時代の幕開けになったのです。


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前置きがだいぶ長くなってしまいましたが、流れがわからないと、なんで、竹之下で合戦になったのか、理解に苦しむところがありますので、あえて記載させて頂きましたこと、お許し願います。
いよいよ、本題です。

足利尊氏が鎌倉に居座って、武家政権を作ろうとしたことから、後醍醐天皇は、新田義貞に足利尊氏・足利直義追討の宣旨を発します。
新田義貞は、尊良親王を奉じて、脇屋義助、脇屋義治、堀口貞満、千葉貞胤、宇都宮公綱ら7万の大軍にて、鎌倉に向かいました。
東海道、東山道、陸奥の3方向から、鎌倉を突く計画でしたが、それぞれの軍勢と連携・統制が取れていなかったようです。
朝敵になったことに悩み、赦免を求めた足利尊氏は、鎌倉・浄光明寺にて出家し、天皇と戦うつもりはないと表明しました。
そんな弱気の足利尊氏に変わって、弟・足利直義が新田勢の迎撃に向かい、矢作川の戦いでは勝利するものの、その後、後退し、手越河原の戦いなど敗北が続きました。
足利直義が、箱根の水呑峠(山中城)まで退いて陣を構えると、出家していた足利尊氏に出陣を促し、ようやく重い腰を上げたと言う事になります。


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新田義貞は、三島にて軍勢を2手に分けて、自らは大友氏・菊池氏など7万騎にて箱根峠へ向かいました。
脇屋義助を副将軍にした別動隊は、尊良親王らと7千騎にて足柄峠を目指したと言う事になります。

これに対し、足利勢は、足利直義がそのまま水呑にて水呑の戦いとなっていますが、大軍の新田勢が有利に進めました。
足柄峠には、足利尊氏が布陣しましたが、当主の出陣で士気が上がった足利勢は、一気に、麓の竹之下に駆け下ります。
そして、竹之下の戦いとなりましたが、翌日、新田勢の大友貞載と塩冶高貞が、足利尊氏に寝返りました。
そのため、脇屋義助らは総崩れとなり、新田勢は敗走しています。

水呑の戦いで大勝しつつあった新田義貞は、退路を断たれることを恐れて、箱根から後退します。
この情勢を見て、新田勢にいた佐々木道誉(佐々木判官)も、足利勢に寝返ります。
中将・二条為冬は、尊良親王を鮎沢川沿いに逃れさせると、小山・白籏神社にて自刃し、同行していた公家ら74名も命を絶ちし、新田義貞の本隊も総崩れとなりました。


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その後、足利勢は勢いを戻すと20万の大軍となり、味方が寝返っている新田義貞は、東海道を京へと敗走するしかありませんでした。
以後、足利尊氏は、光厳天皇の力も借りて戦う事になります。

竹之下合戦古戦場碑がある場所は、当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。

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