紀貫之(きのつらゆき)は、平安時代中期頃の貴族で、紀望行の子として866年(872年とも?)に生まれました。
905年、醍醐天皇は、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人に命じて、日本初の勅撰和歌集になる「古今和歌集」(こきんわかしゅう)の編纂をさせました。
全20巻で歌数は総勢1111首です。
そのうち、大江千里は10首、小野小町は17首になっていますが、紀貫之は最大の102首であり、平安中期を代表する歌人とされます。
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紀貫之は、延長8年(930年)に第48代・土佐守を任じられ、国司として土佐にやってきました。
紀貫之は高齢でしたが、報酬がよかったので土佐に赴いた模様です。
在任する際にも、醍醐天皇の勅命にて「新撰和歌集」を編纂を頼まれてました。
新任国司の島田公鑒(きみあきら)に引き継ぎ、934年に京に戻ると、土佐から京に戻る旅の話に冗談を交え「土佐日記」としてまとめました。
この日記にある行程では、高知市大津から浦戸に船で出たようで、太平洋から大阪・難波へと至ったこともわかります。
この土佐日記(とさ-にっき)は、現存する日本最古の日記とされ、仮名文の日記は、のち「紫式部日記」「更級日記」など平安女流の作品へと発展して行きました。
その後も、この独特の文学が、松尾芭蕉,小林一茶、正岡子規、夏目漱石、森鷗外、樋口一葉、石川啄木を輩出するに至っています。
となると、ブログのご先祖様も、紀貫之と言う事になりそうです。
紀貫之は、945年か946年に死去。
墓所は、比叡山中腹の裳立山です。
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