織田信光(おだ-のぶみつ)は、戦国時代の1516年に、勝幡城主・織田信定の子として生まれました。
母は正室である織田良頼の娘(いぬゐの方)です。
兄に織田信秀(織田信長の父)、犬山城主・織田信康、妹におつやの方などがいます。
織田信秀を筆頭に兄弟は皆「武勇に優れた武将」ですが、織田信光は、今川義元・太原雪斎・松平広忠と、何度も激しい合戦になった小豆坂の戦いでも活躍しました。
小豆坂の七本槍のひとりに、織田信光の名があります。
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なお、織田信光の正室は松平信定の娘です。
この松平信定は、岡崎城主である松平清康・松平広忠の宗家とは別の一族であり、織田信光の姉・妹になる織田信定の娘を妻としていました。
そのため、織田信光と松平信定は、かなり親密な血族と言えるでしょう。
もともと稲葉地城主だったようですが、1535年には、織田信光が尾張・守山城主となっており、そのとき、織田信光は、松平家に内応していたもされます。
内応ではなく松平信定と結託していたとも考えられます。
また、松平清康が織田信光の守山城を攻撃するため出陣したともありますが、守山城に迫ると森山崩れ(守山崩れ)となって、松平清康は暗殺されました。
その後、松平家は衰退しましたが、1552年に兄・織田信秀が末森城にて死去します。享年42。
そして、織田信長が家督を継ぐと、反目した織田信友の重臣・坂井大膳を織田信長と攻撃し、織田信友を殺害して清洲城を奪取するなど協力しました。
坂井大膳は今川義元を頼って逃亡しています。
織田信長が清洲城に入ると、織田信光は那古屋城を与えられ、その勢力はかなりのものとなったようです。
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しかし、1555年11月26日、突然、不慮の死を遂げました。
甫庵信長記では、妻の松平信定の娘(北の方)と通じていた坂井孫八郎が殺害したとありますが、織田信長の謀略ともされます。
坂井孫八郎は、織田信長の命を受けた佐々孫介(佐々成政の次兄)によって討たれました。
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