小笠原玄信斎は、戦国時代の武将で剣客・剣豪で、小笠原長治(おがさわら-ながはる)と称していました。
正式な号は「小笠原源信斎」となりますが、柳生関連の小説などでは、小笠原玄信斎と表記されることが多いです。
今川義元の家臣であった小笠原信興の弟または甥ともされますが、武田信玄や武田勝頼が遠江・高天神城を攻めたときの城主が小笠原信興です。
小笠原長治(小笠原玄信斎)は、三河・亀山城主である奥平貞能の一族の奥山公重(おくやま-きみしげ)から剣術「神影流」(奥山流)を習ったとされ、のちの「真新陰流」を創始しました。
門下生には、針ヶ谷夕雲(はりがや-せきうん)、神谷伝心斎らがいます。
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その後、小笠原長治(小笠原金左衛門長治)は、豊臣秀吉に仕えて、1590年の小田原攻めにも参じたとされますが、よくわかっていません。
1615年、大坂の陣の際には、大坂城に入り、豊臣秀頼に味方したともされます。
豊臣家が滅亡すると、小笠原長治(小笠原玄信斎)は、なんと「明」に船で渡ったとされ、張良の子孫に矛術を授けれれて開眼し、八寸の延金術を編み出したとされます。
日本に戻ると、敵なしの剣客となっており、その八寸の延金では、上泉伊勢守を破ったともされます。
そのあと、寛永年間(1624年~1645年)に、小笠原玄信斎は没したとされます。
以上、伝承の部分が多く、よくわからないため、上記の記載事項じたい、正しいか確証がありません。
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