美濃・桔梗塚は、岐阜県山県市中洞にある、伝明智光秀公墓となります。
諸説ありますが、明智光秀が生まれた場所のひとつとして、この地・中洞もあり、ここで明智光秀が生まれたと言う伝承があります。
明智光秀の父は土岐基頼(土岐元頼)で、母は中洞源右衛門の娘・お袋多だとされています。
下記が産湯の井戸です。
中洞に伝わる古文書によると、明智光秀は、大永6年(1526年)8月15日に生まれました。
7歳の時に父・土岐基頼が亡くなり、その遺言で、明智城主・明智光綱の世話を受けたようで、兵法や軍学を学んだとされています。
そして、優秀な明智光秀を気に入った明智光綱は、明智光秀が11歳のときに養子縁組し、元服させると明智家の11代当主へと跡取りになったと言う事になります。
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そして、1582年、本能寺の変の際に、小栗栖城近くの明智藪にて土民に襲われたのは、明智光秀の影武者・荒木行信(荒木山城守行信)と言う事になっています。
実際の明智光秀は、故郷である中洞に落ち延び、西洞寺の林間にて秘かに暮らしたというのが、地元に伝わる伝承です。
近くの河原には、母が「たとえ三日でも天下をとる子を・・・」と祈った言われている行徳岩もあるそうです。
明智光秀は荒深小五郎と名を変えて、雲水(僧侶)の姿にて諸国遍歴の旅に出たともありますが、関ヶ原の戦いの際に武功を挙げようと、徳川家康の東軍に加わろうとしました。
しかし、関ヶ原に向かう途中、根尾村の藪川にて、増水していたところ、馬と共に流されて水死したと言う事になっています。
亡骸は荒木山城守行信の子である荒木吉兵衛が村へ持ち帰り、その明智光秀の墓が、下記の桔梗塚と言う事になります。
毎年供養祭が行われていますが、白山神社の手前から左の山斜面のあたりにあります。
下記写真左から入って行きます。
細い道を登りますが、距離は30mくらいとそんなに遠くありません。
もし、本当に明智光秀が生きていたら、関ヶ原の戦いの際に77歳と言う事になります。
そのため、この生存説には無理があるかと考えるのが妥当ですが、この「明智光秀」とされる人物(武将)がいたのには間違えないでしょう。
ただ、明智光秀と言う事ではなく、明智一族の誰かか?、明智光秀の子などであった可能性はあるのではと存じます。
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美濃・桔梗塚への交通アクセス・行き方ですが、かなり場所が分かりにくいです。
地図を見ますと、国道256号の脇にある感じに見えますが、実際には国道から下にある沢を越えた向こう側にあります。
そのため、国道からは直接渡れません。
国道256号線から、北東へ進んで中洞に入り、そこから国道の下にある隧道(トンネル)を抜けて、国道の反対側に行くような感じです。
国道から入るところが、わかりにくく、スピードも出ている箇所ですので、早めにウインカーを出して、後続車に曲がる意思を伝えましょう。
当方のオリジナル地図をカーナビ代わりにお使い頂ければ、便利かと存じます。
なお、最後は未舗装路になりますが区間は短く、白山神社に駐車スペースが3台ほどあります。
バスの場合、岐阜バスの板取線に乗車し、樫瀬バス停にて下車して徒歩約16分です。
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