高水寺城址

高水寺城址

高水寺城址(こうすいじじょうし)について

岩手県紫波郡紫波町所在の高水寺城址(こうすいじじょうし)を紹介します。
別名は郡山城(こおりやまじょう)と呼ばれ、紫波町指定史跡となっています。
岩手県紫波郡紫波町二日町字古舘21-2に所在し、
高水寺城の名称は、
斯波氏の居城が高水寺という寺の一部を城柵として用いられたことに由来します。
高水寺の古館は郡山の北西2km、高水寺の西方に近接していました。

現在は、紫波町立城山公園として整備されています。
標高180メートルの丘の上にあり、
眺めは良く、2000本を超える桜が咲き誇る桜の名所で、
公園へ続く遊歩道にできる桜のトンネルは見ごたえがあります。
紫波町は、盛岡市のベッドタウンとして、人口が増加しています。

地名の「紫波」(しわ)はいくつか由来の説があり、
歴史書には「子波」「斯波」「志和」ともあります。

高水寺城の歴史について

中世から江戸初期の山城で、
斯波郡斯波氏の本拠地で、建武2年(1335年)に足利尊氏
奥州管領とし斯波高経の長子家長を下向させ
居城としたことに始まるといわれております。
なお、斯波郡(しわぐん)斯波氏(しばし)は、
室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、
かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名でした。
越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、
また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲しました。
明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つです。

戦国時代に入り、平野部の本城のみでは防御上の不安が生じたため、
郡山の丘陵上に詰の城を築き、
最頂部に本丸がありその南に二の丸(若殿屋敷)、
東に家臣の右京屋敷や姫御殿などがあり、
郡山の山城が斯波氏の本城と見なされ、
高水寺城または志和館(城)と称されました。
斯波氏が隆盛をきわめていたころは「斯波御所」と称されていた程でした。

室町時代後期にいたって三戸南部氏の南進政策により対立が激化し、
天正16年(1588年)、
岩清水右京の謀叛を契機に斯波氏の滅亡ののち、
南部信直は高水寺城を「郡山城」と改めました。
中野修理康実を城代としておき、
その後、中津川や北上川がたびたび氾濫して
石垣などが崩れたりしたため、不来方(盛岡)城築城に際して、
南部信直の元和~寛永年間の居城として南部領の中心となりました。

南部氏が居城を盛岡城に移した後の
寛文7年(1667年)に破却されて城代も廃され、
古材は盛岡城本丸に使用されたとも伝えられているそうです。

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