円融天皇(えんゆうてんのう)を2分で要点解説【光る君へ】11歳で即位した中継ぎ天皇

円融天皇

円融天皇とは

円融天皇(えんゆうてんのう) は平安時代中期の第64代天皇。
父は第62代・村上天皇でその第5皇子で、959年に生まれた。
母は中宮・藤原安子(藤原師輔の娘)の3番目の皇子として誕生した。
即位前は守平親王(もりひらしんのう)と呼ばれている。

2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、歌舞伎役者・俳優の坂東巳之助さんが円融天皇を演じられる。


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円融天皇の兄としては冷泉天皇(憲平親王)・為平親王がいる。

964年、6歳の頃に母・藤原安子が選子内親王を出産するとまもなく死去。享年38。
その後、藤原安子の妹・藤原登子(重明親王の妻)に育てられ、他の兄弟も含めて藤原兼通(藤原安子の弟で藤原登子の兄)から保護を受けた。

967年、村上天皇が崩御。宝算42。
時の権力者である藤原実頼・藤原師輔の兄弟の力にて、兄の冷泉天皇(18歳)が即位した。
関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には藤原師尹が就任しているが、狂気の病だった天皇に代わり摂政・関白が常置されるキッカケにもなった。
立太子(次の天皇)をめぐって右大臣・藤原師尹と、為平親王を推す左大臣・源高明が対立すると、967年、藤原氏が推す9歳の守平親王が皇太弟に決まっている。
この対立は源満仲らの謀反の密告による安和の変に発展し、失脚した源高明は大宰府に左遷された。
そして、969年8月、冷泉天皇は僅か2年で同母弟の円融天皇(守平親王・11歳)に譲位し太上天皇となっている。
大伯父にあたる太政大臣・藤原実頼が関白から転じて摂政に就任。
しかし、970年に藤原実頼が死去すると、天皇の外舅・藤原伊尹が摂政を引き継いだ。
これが藤原北家・九条流である摂関家発展の元となり、やがて円融天皇の母である藤原安子の甥・藤原道長を頂点とする全盛期へ至ることになる。


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972年、藤原伊尹が死去すると、その弟である藤原兼通と、藤原兼家の間で関白職を巡って熾烈な争いが勃発。
円融天皇は亡き母・藤原安子の遺言状に従い、藤原兼通を関白に任じた。
973年、関白・藤原兼通は娘・藤原媓子を入内させ中宮としている。

977年、関白・藤原兼通が重病になると、藤原兼通の要望に従い外戚関係のない藤原頼忠を後任にし、藤原兼家を治部卿(じぶきょう)に左遷させた。
978年、藤原兼家は次女・藤原詮子を入内させ、挽回を試みる。
980年6月、藤原兼家の東三条邸にいた女御・藤原詮子は天皇の唯一の皇子女・懐仁親王(のちの一条天皇)を儲けた。
981年、藤原実資を重用して蔵人頭、そして左中将に就任させている。

円融天皇は、内裏が焼失した際、藤原兼通の堀河殿を里内裏としている。

984年、円融天皇(26歳)は息子の懐仁親王の立太子と引き換えに花山天皇(冷泉天皇の皇子・師貞親王)に譲位。
翌年、病により出家し円融院に住すむと法号は金剛法と称し、風流文雅の生活をおくった。
円融の女御・藤原詮子(藤原兼家の娘、藤原道長の姉)は出家。

986年、寛和の変で花山天皇は一条天皇(懐仁親王)に譲位。

一条天皇の母・藤原詮子(藤原兼家の次女)は、東三条院(女院号の初例)と称し政治に口出ししたことは有名。
ただし、出家後の円融も花山天皇・一条天皇の政治に口を出している。


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円融天皇は991年没。
天皇陵は後村上陵(のちのむらかみのみささぎ)とされている。

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