名熊の二本杉
名熊の二本杉 (なぐまのにほんすぎ)は、千葉県いすみ市下布施にある名所・史跡です。
高さ12mほどの名木で、その名のとおり、2本の杉の木であり、いすみ市の天然記念物に指定されています。
この二本杉は「頼朝の箸杉」とも呼ばれ、源頼朝がこの地で食事をとった際に使用した箸(はし)を、地面にさしたところ、成長したと伝わります。
なにゆえ、源頼朝の伝承になっているかと申しますと、平安時代末期の1180年に伊豆で挙兵し、石橋山の戦いにて敗れたあと、真鶴から安房に渡った経緯があります。
洲崎あたりに上陸して、鋸南に至ると、安房の武将らに味方するよう書状を使者に託しました。
この布施の領主は、上総の最大勢力である上総広常の本拠地となります。
そのため、上総広常には、和田義盛が使者として派遣されました。
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のち、勝山から源頼朝は北上して、千葉常胤・東胤頼・千葉胤正と合流して、鎌倉を目指しました。
なお、上総広常は、和田義盛に「千葉氏などの行動を見てから、味方するか判断する」旨を、当初、返答しております。
そのため、江戸川を渡る頃に、ようやく、上総広常は加勢の軍勢を率いて、源頼朝に合流したため「遅い」と叱責されたとあります。
また、源頼朝は、安房に滞在して、移動しても、南房総市にある安西景益の館までしか、動かなかったようですので、上総まで入った可能性がありません。
そもそも、まだ、敵か味方か?、わからない、安全が保障されない土地に、源頼朝が自ら足を踏み入れることはありません。
実際問題、鴨川の長狭常伴は、味方しなかったようで、三浦義澄が派遣されて、一戦場の戦いとなりましたが、この合戦の際にも、源頼朝は後方の南房総市にて静していたと考えられます。
このように、交渉するにしても、まずは、家来が派遣される訳です。
ただし、上総方面を当初目指していたのは事実だと考えられます。
しかし、その途中で、千葉氏などが味方することがわかったため、より安全を求めて、他の武将らの加勢を待たずに、房総半島からに北上したようです。
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要するに、源頼朝は、安房に上陸した際、布施までは、来ていない可能性の方が高いのですが、上総広常が味方した経緯から、このような伝承となっているのでしょう。
他には、硯山・長福寺にも、源頼朝の伝承があります。
和田義盛が、箸を刺したのか?とも考えてみましたが、使者である和田義盛は、いち早く、源頼朝との間を往復しなくてはなりません。
そのため、悠長と、ここで、弁当など、食べている暇はなかったと推測致します。
すぐ南には、上総広常の館跡とみなされる布施殿台城があります。
となると、領主である上総氏に関連する史跡のような気がしてなりません。
異議を唱えると言う訳ではなく、可能性の話として、真実に少しでも迫ってみました。
もしかしたら、安房に上陸した1180年ではなく、もっと、あとの年代に訪れていたのかも知れませんので、吾妻鏡、全部調べなくてはならないため、地元の研究者さまの見解を待たせて頂くと言う感じです。
伝承がある以上は、源頼朝が差して、成長したと言うことで、ロマンもあり、それで良いかと存じます。
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なお、付近には、上布施千本桜と呼ばれる河津さくらが植えられていおり、桜の名所にもなっているうよです。
交通アクセス
クルマの場合、二本杉の道路がある場所、路肩(未舗装)が、数台ほどの駐車スペースになっていました。
場所などは、当方のオリジナル関東地図にてポイントしております。
スマホで表示して、検索窓から探し、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。
・上総広常の解説~源頼朝に最大勢力として味方した上総介広常
・安西景益の知っておきたい重要ポイントを簡潔に1分でわかりやすく
・硯山・長福寺の歴史解説(千葉県いすみ市)
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