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信長公首塚
織田信長の首塚、すなわち、織田信長の首を埋めた墓が静岡県にあり、信長公首塚として現存しています。
そんな織田信長の墓が、駿府にある理由を調査するため、現地へもお参りさせて頂きました。
戦国時代の1582年、本能寺の変にて討たれた織田信長の遺体は、見つからなかったと言うのが定説です。
しかし、静岡県には織田信長の首塚がありますので、なんで静岡にあるのか?を、調べてみました。
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信長公の首塚は、静岡県富士宮市西山にある、西山本門寺(にしやまほんがんじ)の境内にひっそりとあります。
下記は、その西山本門寺の山門(入口)です。
この山門から、ずっと奥へと約1km入った箇所に、西山本門寺の本堂がありますので、かつてはかなり規模が大きい寺院であったことがわかります。
この富士宮の西山本門寺は、1344年(康永3年)創建の寺院で、西山の地頭・大内安清が、日興の弟子・日代を開山として、西山に法華堂を建立した模様です。
僧侶の日代(にちだい)は、静岡県富士宮市北山にある北山本門寺(重須談所)の2世でした。
現在の西山本門寺は、とにかく、土地が広いと言う印象です。
そして、戦国時代となり、京都の本能寺にて横死した織田信長の首は、本因坊日海(本因坊算砂)の指示によって、原宗安(原志摩守)が富士宮に持ち帰り、柊(ヒイラギ)を植えて首塚として葬り供養したと伝わります。
本因坊日海(本因坊算砂)
本因坊算砂 (ほんいんぼう・さんさ)は、1559年生まれの僧侶で囲碁の名人としても知られます。
父は、舞楽宗家の加納與助であり8歳で出家すると、当初は、本因坊日海と称していましたがのち本因坊算砂と名乗りました。
そうそう、下記の写真がある場所、2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第2話にて、源頼朝が北条政子に若い頃の身の上話をするシーンにてロケも行われたロケ地です。
話を戻しますが、実は、この本因坊日海は、織田信長と面識があり、1578年に「そちはまことの名人なり」と囲碁の腕を称賛されています。
京都寂光寺本因坊の住僧を務め、1582年、明智光秀による本能寺の変の前夜に、信長の御前で囲碁の試合を行っていたようです。
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なんでも、利玄(鹿塩利賢、または林利玄など諸説あり)と、22時ころより囲碁の対局をしたとあります。
そこで、盤上に劫が3カ所もできる非常に珍しい三劫(三コウ)が出来てしまい、その後、重大事件が起こったことから以後「三コウは不吉」と伝わります。
そして、その夜は、本能寺に宿泊した模様です。
その本因坊日海が、本能寺の焼け跡から、織田信長の遺体をみつけ首を取らせて、原宗安(原志摩守)に託したというのが、西山本門寺に伝わる話となっています。
本因坊日海は、西山本門寺の境内に「本因坊」という坊舎を建て、住んでいたことがあったようです。
ちなみに本因坊日海は、その後、1587年には、徳川家康に招かれて駿府城でも碁を行ったようです。
また、1588年には、豊臣秀吉のまえでも対局して、勝利したため20石10人扶持を与えられたとされます。
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江戸幕府が開かれると、江戸に招かれ、僧侶としての最高位の「法印」に叙せられたほか、50石10人扶持とされました。
1623年に死去。
原宗安(原志摩守宗安)
さて、織田信長の首を静岡に持って行ったとされる、原宗安(原志摩守)に関しては下記の通りになります。
原宗安(原志摩守)なる武将は、西山本門寺の第18世住職・日順の父だったようです。
そして、本因坊算砂と原志摩守は、旧知の友だった模様です。
原宗安は、秘かに首を運ぶため「仏像の中」に入れて、山道伝いに駿河まで、運んだとも言われています。
どうも、この原宗安は、織田家の家臣であり、父・原胤重と、兄・原清安(原孫八郎清安)が、本能寺で討死し、その2人の遺体も発見して、織田信長の首と「3つ」の首を静岡に持ち運んだようです。
そして、文献「原家記」によると、西山本門寺の本堂裏手に、3人の首を埋めたと記載されています。
信長公首塚がある場所ですが、現在ある西山本門寺の本堂・左側に進み、下記の写真のところを裏山方面へと入って行きます。
すると、建物の裏側に、信長公首塚があると言う感じです。
山の中へ入っていくようなことはありません。
ただし、原志摩守宗安の子である日順上人の生まれは、江戸時代の1602年でして、織田信長の首が運ばれた際には、まだ誕生していなかったと言えます。
しかし、過去帳として「天正十年六月、惣見院信長、為明智被誅」と記載しているため、父などより、話を聞いていたと推測できます。
静岡県の天然記念物に指定されている柊(ヒイラギ)の木は、推定樹齢は450年以上でして、織田信長が死去した時代と、ほぼ一致します。
なお、問題なのは「誅」と言う字を使用していることです。
討たれたと言う事ではなく「誅された」と言う意味になってしまいます。
誅したと言う事は、織田信長より、高い身分の者が、命を下したと、受け取るしかありません。
明智光秀は、織田信長の家臣ですので、実行犯ではありますが、その高い身分のものという事ではないのです。
となると、織田信長より位が高かった者は、誰だったのか?
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あと、ひとつ疑問に感じるのは、京から駿府に、首を運ぶのであれば、途中の尾張にて、織田信勝や織田信孝など、織田信長の子供に、預けることもできたと考えられる点です。
しかし、預けなかったと言う事は、ひょっとしたら、最初から秘かに、供養するつもりだったとも?、そのように指示されていたとも考えられます。
あえて、お名前までは出しませんが、日順は、京都・上行院を通じ、後水尾天皇の皇女・常子内親王の帰依を受けています。
そして、常子内親王は、江戸時代前期の1678年(延宝6年)、父である後水尾天皇の位牌を西山本門寺に納めました。
いずれにせよ、京都・本能寺で命を落とした、織田信長の亡骸の行方は、謎であり、日本史最大のミステリーとも言えるでしょう。
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ちなみに、西山本門寺の20世・日円上人は、徳川光圀(水戸黄門)の子であり、助さんこと佐々宗淳も、1ヶ月ほど西山本門寺に滞留したことがあります。
なお、織田信長の遺骸に関しては、親交のあった阿弥陀寺の清玉上人が、京都・阿弥陀寺(総見院)の境内に埋葬したともされ「織田信長信忠討死衆墓所」があります。
交通アクセス
信長公首塚・西山本門寺への行き方ですが、JR芝川駅からバス約20分、西山黒門前バス停下車となり、徒歩15分です。
芝川駅からタクシーだと、約15分ほどです。
駐車場は、西側と東側にありますが、東側のほうは、100台以上は、止められるのではないか?と言うくらい、広い境内の中となっています。
当方のオリジナル関東地図では、東側の広いほうの駐車スペースを、ポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。
ただ、付近の道路は、狭めですので、どうぞ、ご注意願えますと幸いです。
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