二俣川の戦い史跡解説~横浜市にある「畠山重忠の乱」関連史跡の周り方

二俣川の戦い

二俣川の戦い史跡解説

鎌倉時代の初期、1205年6月22日、畠山重忠の乱(はたけやましげただのらん)にて「二俣川の戦い」となりました。
武蔵国二俣川(神奈川県横浜市旭区)が現場と言う事になりますが、現代においては、鶴ヶ峰駅付近となります。


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畠山重忠は、鎌倉で騒ぎが起こったと知り、6月19日、本拠地の菅谷館を出発しました。
従ったのは、2男・畠山重秀、本田近常(本田次郎近常)、乳母父の榛沢成清(榛沢六郎成清)など、130騎程度です。
だいたい1騎につき、3~4人の歩兵が付きますので、兵力としては500名くらいでしょうか?
甲冑を着て出陣したと考えられますので、一戦交える可能性は、認識していたものと考えられます。

6月22日早朝になって、鎌倉は大きな騒ぎとなり、鎌倉にいた畠山重忠の嫡男・畠山重保と郎従3人は、由比ヶ浜にて、三浦義村や佐久間太郎らによって殺害されました。

畠山重保供養塔は鎌倉にあります。

命じたのは、北条時政です。
畠山重忠が大軍を率いて鎌倉に向かっているとして、途中で誅殺するため鎌倉から討って出ました。
鎌倉幕府勢としての総大将を命じられたのは北条義時です。
従った御家人は、葛西清重、堺常秀、大須賀胤信、国分胤通、相馬義胤、東重胤、足利義氏、小山朝政、三浦義村、三浦胤義長沼宗政結城朝光、宇都宮頼綱、八田知重、安達景盛、中条家長、苅田義季、狩野介入道、宇佐見祐茂、波多野忠綱、松田有経、土屋宗光、河越重時、河越重員、江戸忠重、渋河武者所、小野寺秀通、下河辺行平、薗田成朝、大井氏・品河氏・春日部氏・潮田氏・鹿島氏・小栗氏・行方氏、児玉党・横山党・金子党・村山党らとそうそうたるメンバーです。
関戸には、大将として北条時房和田義盛が向かった模様です。

畠山重忠らの軍勢は、6月22日の午後、二俣川に差し掛かると鎌倉を発した討伐軍に遭遇しました。
鎌倉勢は、万騎ケ原に布陣したようです。


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畠山重忠は、二俣川にて今朝に長男・畠山重保が殺害されたことを知り、自分に追討軍が向けられた事実も把握しました。
負けるのがわかっていても、潔く戦うことが武士の本懐であるとして大軍との合戦に挑んだ次第です。

二俣川の戦いでは、はじめ、安達景盛と主従七騎が、畠山勢に突入してきたと言います。
こうして、約4時間の激戦となりましたが、愛甲季隆(愛甲三郎季隆)の矢があたり、畠山重忠は討死しました。享年42。
畠山重忠の死を知った、畠山重秀や家来らは自害して果てたと言う事になります。


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謀反を起こした畠山勢は大軍だと聞かされていた、総大将の北条義時は、二俣川での相手が少数だったことに驚いたようです。
泣きながら「謀反では無かった」と父・北条時政に報告したとされます。


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下記は、鶴ヶ峰付近に残る史跡の一覧です。
二俣川の戦いの時系列順にご紹介したいと存じます。

すずり石水跡

畠山重忠が戦う覚悟をして陣を構えた時に、この水で墨をすったと伝わります。
畠山館にでも、書状を出したのでしょうか?

すずり石水跡

すずり石水跡は谷間にありまして、昔は崖から湧き水が僅かに出ていたのでしょう。
現在は、住宅地となっています。

すずり石水跡

すずり石水跡へのアプローチは、西側から入ると、高低差が少なくて済みます。

矢畑・越し巻き

鎌倉勢が放った矢が大量だったので、矢の畑のようになったという伝承から「矢畑」と呼ばれています。

矢畑・越し巻き

なお、この付近で畠山重忠が敵に取り囲まれたとする説と、矢が腰巻のように、ぐるりと取り巻いたという説があるようです。
現在は、写真の通り、矢畑・越し巻きを示す細い柱が建っているだけとなっています。

さかさ矢竹

畠山重忠は、死ぬ前に「我が心正かればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と言い、2本の矢を地面に突き刺したと言います。
その矢が根付いて毎年2本ずつ増えていき、ちょっとした竹林ができたそうです。

さかさ矢竹

その後、さかさ矢竹は失われていましたが、重忠没後800年を記念して、平成17年に復元されたそうです。

畠山重忠公碑

二俣川合戦の激戦の地に建立されました。

畠山重忠公碑

畠山重忠終焉の地とされますので、万騎ケ原古戦場跡の中心地とも言えるでしょう。
畠山重忠公碑とさかさ矢竹は、鶴ヶ峰駅入口交差点のところに一緒にあります。

鎧の渡しと首洗井戸

町田から伸びている鎌倉街道が、帷子川(かたびら-がわ)を渡る場所で合戦になったようです。
昔は、川幅が広く浅瀬があり、武士らは鎧を頭に乗せて渡ったと伝わります。

鎧の渡しと首洗井戸

なお、首洗井戸は、1mほどの穴に、水が湧いていたそうで、畠山重忠の首を洗い清めた井戸だとされます。
現在は、川の流れが変わっており、渡った地点と、井戸も、失われています。


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鎧の渡しと首洗井戸の跡は、旭区役所の裏手にある駐車場の端にあり、案内柱などは細い道路側にあります。

畠山重忠公首塚

畠山重忠の首塚と伝わり、供養した塚と石塔があります。

畠山重忠公首塚

横浜市旭区役所から近く、近くには、上記の「鎧の渡しと首洗井戸」がありますのでセットでどうぞ。

六つ塚

畠山重忠や、畠山一族郎党134騎を埋葬した地とされます。

六つ塚

薬王寺境内には、畠山重忠の最期に従った、畠山一族と郎党134騎を埋葬したと伝わる、六つの塚があります。

駕籠塚

畠山重忠の妻・菊の前が、合戦になったとの急報を受けて、駕籠(かご)に乗り二俣川に急ぎ駆けつけたとされます。

駕籠塚

そして、畠山重忠の討死を知ると、この場所で自害したと伝わります。

駕籠塚

遺体は駕籠と一緒に埋められたとされ、かつては大きな塚があったようです。
駕籠塚は、山の頂上付近にあり、疲れますので、最後に訪問するようにコースを考えると良いかと存じます。


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畠山重忠が最初に結婚したのが足立遠元の娘・菊の前になります。
菊の前は、畠山重秀を産んでいます。
のち、畠山重忠は、北条時政の娘・栄子?とも結婚し、畠山重保が誕生しました。
この畠山重保と、北条時政の妻・牧の方の女婿である平賀朝雅の口論がきっかけで、畠山家は討伐を受けたのでした、

畠山重忠の墓は、あと、富山の楡原館近くにも存在致します。
2回ほど近くを通行したことがあるのですが、撮影までは行わなかったので、ちょっと、後悔しております。

交通アクセス

相模鉄道の鶴ヶ峰駅から歩いて回ると、観光所要時間は約1時間くらいになります。

道路が狭く、坂道も多いので、各史跡がある場所を、クルマで巡るのは、非常に困難です。
そのため、クルマの場合、有料駐車場に入れて、歩いて、付近を散策と言う感じになります。
旭区役所の第2駐車場(17台)が安いのでお勧めです。

徒歩にてお勧めの順番・周り方は、最初は平地部を周り、最後に山へと向かうと、疲労も最後になるので、途中が苦になりにくいでしょう。
最初は、畠山重忠公首塚、すぐ近くの鎧の渡し・首洗い井戸、トイレは区役所のを拝借可能です。
そして、畠山重忠公碑・さかさ矢竹、水道道を西に向かい、畠山古戦場「矢畑・越巻」、信号のある横断歩道を渡って北に向かい、薬王寺・六ツ塚。
六つ塚の辺りからは、小高い山に入ります。
そのため、すずり石水跡を経て、最後に駕籠塚と訪れますと、ラストは、下り道にて、鶴ヶ峰駅または、旭区役所の第2Pに戻れます。

各史跡の場所などは、当方のオリジナル関東地図にてポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
歩行用でも、ナビとしてお使い頂けますので、便利です。

鶴ヶ峰付近の道路は、慢性的に渋滞しますので、道路をむやみに横断するのは危険です。
道路を横断される場合には、必ず、横断歩道を渡りましょう。
夏場は、どうぞ、紫外線対策・熱中症対策を。

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