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富士川の戦いとは
富士川の戦い(ふじかわのたたかい)は、平安時代末期の1180年10月20日、駿河国富士川にて、源頼朝・武田信義と、平維盛が戦った合戦である。
1180年8月17日に挙兵し、石橋山の戦いに敗れるも、10月6日、鎌倉に入った源頼朝に対して、平清盛は、9月1日に大庭景親から挙兵の知らせを聞き、9月5日には、平維盛を総大将にした討伐軍の派遣を決定。
しかし、軍勢を準備するのに手間取り、平氏勢が神戸の福原京を出たのは、9月22日。
京から関東へ動き出したのは、9月29日。
その間、源頼朝の元には、関東の多くの武将が集まり、信濃では甲斐源氏の源義仲も挙兵した。
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平家勢は、進路上にて、兵を加え、約7万の大軍になったと言うが、大飢饉の最中で兵糧不足に陥り、士気は低かった模様。
10月16日、鎌倉からも源氏の軍勢が出陣し、10月18日夜、源頼朝は黄瀬川沿いに布陣。
この間、平氏に味方していた大庭景親は、軍勢を率いて平維盛に合流しようと試みるも、源氏の陣を突破できず、10月18日に降伏。
同日、曾我祐信や荻野俊重(横山党・海老名季貞の子)も降伏。
伊東祐親・伊東祐清は、水軍を率いて平維盛の陣を目指すも、10月19日に、捕らえられた。
もちろん、これら、関東の多くの武将が源頼朝に寝返っており、平氏勢として最後まで貫いた武将も、次々につかまったりした情報は、平氏軍に伝わっていたことだろう。
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平氏勢は、富士川の中に、いくつもあった、中州のような各所にて、10月18日から陣を張っていたと考えられる。
そこに、源頼朝は、10月20日、富士川近くの賀島(かしま)(静岡県富士市)まで、軍勢を進め、小競り合い程度はあったようだ。
10月20日夜、源頼朝に味方した、甲斐源氏の武田信義が、北からやって来たようで、平氏の背後を突こうと動いたところ、驚いた水鳥がいっせいに飛び立った。
平氏は、アシの中から飛び出した鳥を見て、源氏の大軍が来襲したと思い込み、戦わずに、あわてて退却開始。
平家が驚いてしまった場所が「平家越え」と呼ばれる、静岡県富士市新橋町付近とされる。
平氏は、富士川合戦になる前から、空腹に耐えかねて、脱走する兵も多かった模様。
現在の富士川は、洪水対策として、江戸時代初期に、雁(かりがね)堤を構築し、流れを変更しており、だいぶ西側にある。
戦国時代までの富士川は、この辺りも含めて、いくつかに川筋が、分かれて、田子の浦にも通じていたようだ。
実質的に、源氏としては、甲斐源氏の武田信義のみが主に戦ったとも言えるが、平氏軍は総崩れとなり、この勝利により、東国・関東における源氏の優位が確立。
平維盛は、その後も、軍勢を立て直すことができず、京へ逃げ戻った際には、わずか10騎になっていた。
富士川の戦いでの勝利の翌日(10月21日)、黄瀬川の陣に、郎党20騎を率いた若い武者が、源頼朝との対面を願い出た。
奥州平泉から駆けつけた弟・源義経と、涙の対面が実現した。
鎌倉に戻った源頼朝は、御家人らの本領安堵と、没収した領地の新恩給付を行なっている。
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敗走を知った平清盛は「追討使に任じられた日から命は君に捧げたのであり、たとえ敵軍の前に死骸を晒したとしても何ら恥ではない。それが合戦もせずに逃げ帰ってきたとは、家の恥、後世の笑い物である。帰京は絶対に許さない」と激怒したとされる。
平氏の官軍が、初めて負けた合戦でもあり、以後、滅亡への道を進むことになった。
平家越え
平家越え(へいけごえ)は、静岡県富士市新橋町にある史跡。
場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしておりますので、よければ、地図内にて「平家越え」と検索願いたい。
石碑があるだけなので、見学所要時間は1分といったところ。
交通アクセス・行き方としては、JR吉原駅から岳南鉄道に乗車して「吉原本町」駅にて下車し、徒歩約15分。
付近に駐車場はない。
このあとは、阿野全成の井出・大泉寺に向かった。
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