玉縄首塚とは
戦国時代の1526年11月12日、玉縄城の戦い(大永鎌倉合戦)がありました。
場所は、現在の神奈川県鎌倉市岡本付近で、大船駅近くに「玉縄首塚」もあります。
この玉縄城の戦いは、里見義豊が、鎌倉を攻撃する際に、玉縄城の北条氏時(北条氏綱の弟)が迎え撃ち、戸部川(柏尾川)で合戦になったとあります。
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里見義豊(さとみ-よしとよ) は、叔父・里見実尭 (さとみ-さねたか) や、小弓公方・足利義明、中里実次、酒井定治、正木氏・安西氏らと共に、安房・岡本城から安房水軍を率いて、東京湾を横断したようです。
三浦半島を周って、鎌倉の由比ヶ浜に上陸し、北条勢と戦いました。(鶴岡八幡宮の戦い)
このとき、鶴岡八幡宮が、里見勢によって炎上したことから、鎌倉市中が火災に見舞われるため、鎌倉から軍勢を、玉縄に進めたようです。
後年、里見氏は、北条領内にも関わらず、鶴岡八幡宮の再建を行う事になります。(後述)
里見氏は、上杉朝興とも連携しており、扇谷・上杉朝興が、相模・玉縄城の北から攻撃参加したともあります。
里見勢・上杉勢に対し、北条氏時には、大船の甘糟氏や、渡内・福原氏なども従い、里見勢と戦いました。
合戦終了後に、両陣営にて、首の交換が行われたようで、渡内・福原氏、玉縄・甘糟氏など35名の首を埋葬したのが、玉縄首塚(甘糟塚)と言う事になります。
里見勢は優勢でしたが、小田原城から北条勢の援軍が来たのか、相模から撤退しています。
毎年8月下旬頃には、玉縄首塚を供養する「玉縄首塚まつり」が行われるようです。
なお、鶴岡八幡宮を燃やした里見義豊は、家臣らの信用を失い、のち内紛となって、里見氏は弱体化します。
鶴岡八幡宮は、源氏や鎌倉の守護神でもあり、里見義成の末裔である里見氏にとっても、崇敬するべき寺院でした。
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小弓公方・足利義明も、鎌倉公方になるのが夢であり、その鎌倉を灰にしたのは、マズかったのです。
北条氏綱が、鶴岡八幡宮の再建を行う際、敵地にも関わらず、里見氏からは材木を送るなど、協力することになりました。
交通アクセス
玉縄首塚への交通アクセスですが、JR大船駅から歩いて約5分です。
クルマの場合、隣に、コインパーキングがあります。
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