松平直矩 引っ越し大名と呼ばれた姫路藩主

松平直矩 引っ越し大名と呼ばれた姫路藩主

松平直矩(まつだい-なおのり)は、7回の国替え(転封)を経験したことから「引っ越し大名」とも呼ばれた江戸時代前期の大名です。

松平直矩は、江戸時代初期の1642年に、越前・大野城の越前大野藩主・松平直基の長男として生まれました。
父・松平直基も、実は引っ越しが多かった大名で、越前・勝山城の越前勝山藩3万石から、越前大野藩5万石、そして、松平直矩が生まれた2年後には山形城の山形藩15万石と出世しました。
しかし、今度は姫路城の姫路藩へと新たに転封となりましたが、その姫路に赴く途中にて、亡くなっています。(享年45)
そのため、松平直矩は僅か5歳で家督を継ぐことになりました。
ところが、西国の押さえとして重要拠点でもある姫路を、まだ5歳の藩主が務めるのは早計だと言う話になってしまい、すぐに越後・村上城の村上藩へと国替えになりました。


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しかし、成長すると、再び姫路城に復帰を果たしています。
ただし、親族である越後高田藩の御家騒動(越後騒動)が起こった際に、出雲広瀬藩主・松平近栄と共に騒動の鎮静化に当たりましたが不手際を指摘されます。
そのため、松平直矩は15万石から7万石に減らされて、閉門の身となったうえで、1682年、豊後日田藩への国替を命じられ永山城(日田陣屋)に入りました。

それから4年後には、3万石加増の受けて、出羽・山形藩に移っています。
さらに6年後には、5万石の加増があったうえで白河城の陸奥・白河藩へ移動しました。
これで、15万石に戻りましたが、それまでの国替での引っ越し費用は膨大な額であり、たくさんの借金を抱えることになったと言います。
松平直矩は藩主に就任する前を含めますと、生涯で7回引っ越ししたことから「引越し大名」のあだ名をつけられたと言う事になります。

藩士も困窮しており、領内では苛酷な税金を取ったとありますが、松平直矩は歌舞伎が好みであり、残した「松平大和守日記」は、当時の様子を知る一級資料となっています。

松平直矩は、1695年に死去しました。享年54。


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2019年8月30日公開映画「引っ越し大名」では、松平直矩の話が取り上げられました。

映画「引っ越し大名」 出演者キャスト一覧
姫路城の歴史と見どころ【国宝・世界遺産】~焼夷弾直撃も不発にて現存した奇跡の城
柳沢吉保~いち藩士から幕臣として大出世した旧武田家臣
松平直基~書写山と最乗寺にある松平直基の墓所

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