阿辰の墓 (おたつ様の石祠)は、千葉県佐倉市臼井に墓所です。
阿辰(おたつ)は女性で、臼井城主・臼井祐胤(すけたね)の子・竹若丸の乳母となります。
鎌倉時代の末期、1314年、下総・臼井城の11代・臼井祐胤(臼井太郎祐胤)は、僅か25歳で死去しますが、遺児・竹若丸(3歳)の後見を、弟で志津城主の志津胤氏に依頼しました。
しかし、志津胤氏(志津次郎胤氏)は下総・臼井城を乗っ取ろうとして、竹若丸を殺害する計画を立てたようで、阿辰(阿多津)は、岩戸城の岩戸五郎胤安の助けを受けて、竹若丸を鎌倉・建長寺へ逃しました。
<注釈> 一族の岩戸城主・岩戸胤安が、修験者に身を変えて、下総・臼井城に忍び込み「笈」のなかに竹若丸を隠して、臼井城から脱出すると、印旛沼の対岸にある居城・岩戸城にて匿ったともあります。
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怒った志津胤氏は、乳母の阿辰を追いますが、印旛沼の芦原に潜んでいた阿辰は、咳が出てしまい、発見されて殺されたと伝わります。
その後、村人が石の祠を建てて、供養したのが、阿辰の墓となります。
なお、麦こがしとお茶を供えて、お願いすると咳(せき)が治ると伝わり「咳神」としても知られているようです。
あと、岩戸胤安・岩戸胤親父子の下総・岩戸城は、志津胤氏から攻撃を受けて、落城しました。
こうして志津胤氏は、一時、臼井領を押領したようです。
鎌倉に逃れていた竹若丸は、建長寺の仏国禅師と、その死後託された仏真禅師に師事して成長・元服すると、臼井行胤と称しました。
臼井行胤(うすい-おきたね)は、自分が正統な臼井氏の惣領であることを、執権・北条貞時に訴えたようですが、退けられています。
こうして、臼井行胤は、北条家打倒では、新田義貞の鎌倉攻めにも加わって、足利千寿王のもと戦い、その後、足利尊氏に従うと武功を挙げました。
従五位下・左近将監となった臼井行胤は、臼井興胤と改名しています。
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暦応元年(1338年)、足利氏の意向を受けた千葉介貞胤(千葉氏12代当主)の命にて、志津胤氏は臼井城を臼井行胤に明け渡しています。
しかし、本家筋の臼井行胤(臼井興胤)に、志津胤氏は心底から従わなかったため、1340年、志津城は攻撃を受けて、志津氏は滅亡しました。
臼井行胤(臼井興胤)の妻は、千葉氏の重臣である木内胤氏の娘(木内余一胤氏の娘)・磯子で、その子・臼井尚胤が、臼井氏中興2代となり、勢力を少しずつ、伸ばして行きます。
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