大森代官所跡は島根県大田市大森町にある国指定史跡で、江戸時代に、江戸幕府が石見銀山(大森銀山)を管理するために設置した代官所となります。
1600年、関ヶ原の戦いにて、徳川家康が勝利すると、石見の支配者でもあった毛利家は減封となりました。
そして、佐渡金山や石見銀山などは、すべて徳川幕府の直轄領となり、大久保長安が石見・山吹城に入っています。
しかし、山上では、管理に不適切な事から、大久保長安は、陣屋構えの大森代官所を造営して、石見銀山管理の拠点としました。
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その後、2代代官である竹村丹後守の時に、現在の場所に代官所が移ったようです。
大森代官は、大森銀山だけでなく、石見(島根県)・備後(広島県)・備中(岡山県)にある幕府直轄領、合計6万石を管轄しており、大きな権限をもっていたようです。
大森代官所の現存建物としては、門番詰所や仮牢などに使用されていた門長屋(1815年再建)が残っています。
敷地内には「抜け穴」が2つあり、有事の際には、代官などが脱出できるようにもなっていたようです。
また、敷地の中にある石見銀山資料館は、明治35年(1902年)に、迩摩郡役所として使われていた木造平屋建、入母屋、桟瓦葺となります。
天候不良にて発生した、江戸時代1732年、享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)では、冷夏と害虫により、西日本では約2万人が餓死したと伝わります。
この時の大森代官は、井戸正明(いど-まさあきら)、61歳です。
1731年9月から大森代官となり、1732年からは、備中・笠岡代官も兼任していました。
そして、井戸正明は、飢饉に苦しむ20万人の農民を救うために、商人から寄付金を募り、さらに私財を投入などして努力したと言います。
更には、栄泉寺に滞在した薩摩の僧・泰永より、サツマイモ(甘藷)が、救荒食物として適しているという話を聞くと、さっそく種芋を取り寄せました。
しかし、種付けの時期が遅かったことなどもあり、期待通りの食糧確保に至らず、井戸正明(井戸平左衛門)は、重大な決断を下します。
幕府に納める年貢米の蔵を開けて農民に分け与えました。
それだけでなく、次の年貢を無しにしたのです。
※諸説あります。
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本来であれば、幕府の許可を得ていないと、年貢米を開放したりすることは、代官と言えどもできません。
しかし、よっぽど、緊急性が高かったのか、井戸正明は、自分が責任を取る覚悟で、断行したと言えるでしょう
1733年、井戸正明は、大森代官職を解かれて謹慎処分となり、備中・笠岡の陣屋にて蟄居しました。
そして、1733年5月26日、死去しています。
死因についても、諸説ありますが、切腹したとも言われています。
井戸平左衛門の代官支配地からは、ひとりの餓死者も出さなかったとされ、のち「イモ代官」と呼ばれる名代官として語り継がれたと言います。
その後、サイマイモも、寒い地方でも育つ栽培法がわかり、石見を中心にして近隣の村々へと広がったとされます。
大森代官所には駐車場(駐車スペース)が、道路の反対側(銀山川沿い)にあります。
ただし、土日祝など混雑時は、観光での駐車はできない場合も考えられます。
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