結城秀康(ゆうき-ひでやす)は、徳川家康の次男である。
母は家康側室於万の方。天正2年(1574年)2月8日遠江国敷智郡有富見(宇布見)村(現静岡県浜名郡雄踏町)の中村源左衛門邸に生まれた。
幼名を於義丸(於義伊・義丸など諸説あり)という。
この幼名の由来は顔が魚の「黄顙(ギギ)魚」に似ていることから名付けられたという所伝があるが、「越叟夜話」・『片聾記』によれば3歳になるまで父家康との対面はかなわなかったとあり、これが事実なら甚だ疑わしい。
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ただし、両史料とも秀康の出生地を「参州」(三河)としたり(ただし、『国事叢記』も異説として三河出生説を紹介している)、「越叟夜話」にいたっては「三郎様(信康)御生害の節台徳院様(秀忠)にハいまた御誕生不被遊」とあるように信康切腹時秀忠はまだ出生していなかったと伝えており(一般的に信康自害は天正7年9月14日なのに対し、秀忠出生は同じ天正7年4月7日とされる)、定説と異なる記述もあることを注記しておく。
秀康出生当時、彼には腹違いの兄である信康がいたが、天正7年、父家康により武田内通の嫌疑をかけられ切腹した。
この時点で徳川家後継者の最有力候補は秀康となったといえる。
『国事叢記』に「於義丸君御嫡男ニ御成被成候」とあることや『片聾記』が秀康のことを「東照大権現(家康)御嫡男」と紹介しているはその傍証となろう。
ところが、天正12年12月、羽柴秀吉との小牧・長久手の戦いでの講話に際し、秀吉の養子(実質的には人質)となり、事実上後継者候補から外れることになる。
その後秀吉の下で元服して、養父秀吉の「秀」と実父家康の「康」をそれぞれ拝領して羽柴三河守秀康を名乗る。
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当時の武将は元服時に仮名(元服後初めて名乗る通称)→官途名→受領名という順に変遷していくのが多いとされているが、秀康は仮名を名乗った形跡はなく、元服と同時に受領名三河守を名乗っており、当時の武将としては珍しい部類に入ると思われる。また、三河守就任は父の受領名を継承したと理解できる。
なお、父家康と兄信康の仮名は共に次郎三郎であり、弟秀忠の仮名は確認できないが、幼名を当初の長松から父・徳川家康と同じ竹千代に改めているので、この事実からも秀康は家康の後継者レースからは脱落したといえるだろう。
元服後秀康は秀吉より河内国2万石(1万石とも)を与えられたといわれる。
しかし、河内国時代の秀康の詳細な事績は伝わっていない。天正13年7月には、従四位下・左近衛権少将に就任している。
この頃初陣も果たしており、天正15年の秀吉の九州討伐において、豊前国(筑前国とも)岩石城攻めに加わっている。
その際秀康は大将となり、先方に蒲生氏郷・前田利家、「二之手」には佐々成政・水野忠重といった錚々たる陣容で臨んだ。
秀康本体が山の途中まで登ったところで、岩石城は落城したという。
岩石城落城の報を聞いた秀康は涙し、成政と忠重がこれをなぐさめたが、成政自身はその心得に感心したようであり、後に秀吉の前でこの出来事を回想し、「さすがは家康殿のご子息でございます」と述べたところ、秀吉は「それは成政の心得違いだ。秀康は家康の子であったところを秀吉の養子にしたものなので、戦の気質はこの秀吉に似ているのだ」と述べたという話を『国事叢記』や「越叟夜話」が伝えている。
翌年4月に左近衛権中将に就任。
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ところが、天正18年秀吉の突然の命により関東の結城晴朝の養子となる。
結城氏は、源頼朝の有力御家人朝光の後裔とされ、本姓は藤原氏を称していた。
この際、家康が天正18年7月29日付で黒田孝高(官兵衛)・水野忠重両名に宛てた書状で「三河守(秀康)五萬石、奉得其意候事」とあり、秀康入部当初の知行高が5万石であることが知られる。
また同時に秀康が結城氏の後継者に選定されたことへの謝意を述べている。
このタイミングで秀康が結城氏の養子となった理由について、「越叟夜話」は天正18年の春、下総国の豪族(国衆)結城晴朝の重臣多賀谷政広が秀吉の下を訪れ、「晴朝には家督を継ぐ男子がいないので、秀吉様の一族より養子をもらいたい」と懇願したところ、秀吉は「結城氏は関東の名家であるので、由緒の正しい者が後継者となるべきあり、秀康こそその立場に相応しい」と述べたと伝えている。
ただし、『国事叢記』・「越叟夜話」両史料ともに、秀康が十六歳の時、伏見城内の馬場で秀吉が乗馬を見物した際、秀康も乗馬を披露したところ、秀吉の馬役が秀康と馬で並走したので、それを不快に感じ、馬上より一太刀でその馬役を斬り落とした事件を伝えている。
また「越叟夜話」はその後日談として、秀吉は秀康の行動に対して表向き納得したものの、内心秀康に対して含むところがあったとも紹介しているので、上記の多賀谷政広に対する秀吉の発言をそのまま信用するのは難しいかもしれない。
その後文禄2年(1593年)に朝鮮出兵のため、肥前名護屋城に詰めたものの、同年1593年に伏見城に帰陣した(文禄3年の帰陣とも)。
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文禄3年11月頃土浦領より始まる惣検地(文禄検地)によって結城領は10万1千石の知行高が打ち出された。
この時の主な秀康の知行地は小山領・壬生領・鹿沼領・日光領・土浦領などから構成されている。
ちなみに当時、知行を宛行う際は、地名を冠して○○郡と記載されるのが一般的であるが、秀康の知行宛行状には○○「領」となっており(後の越前移封後も同様である)、当時の大名の中でも数少ない事例であるといえる。
また家臣宛の知行宛行では一村知行はなく、村高の一部を与える相給制を採用しており、家臣と知行地との結びつきを大きく制限するという点で、秀康の知行制度の特徴として注目される。
ところで、秀康は慶長3年(1598年)の朱印状に「秀朝」と署名しており、これは結城氏の通字である「朝」を継承し、結城氏の正式な後継者としての立場を内外に示したと理解できる。しかし、この頃は「秀康」と「秀朝」の名を併用していたようであり、結城氏の名跡を秀康5男の直基に継承させたことで、その後は実名を「秀康」に戻したとみられる。
同じ1598年、秀吉が死去すると、徳川家康と石田三成が対立し、慶長5年9月関ヶ原の戦いが起こる。
秀康は父家康の上杉景勝征伐軍に加わって下野小山にいたが、石田三成挙兵の報を受けた家康が軍を上方に向けたのに対し、秀康自身は父の命により、上杉景勝の関東侵攻に備えるため、同地(同国宇都宮とも)に留まった。
「越叟夜話」では秀康がこの時家康軍本隊への参加を懇願したが、家康に「先程其方(秀康)は上方に大した敵はおらず、それに対して上杉景勝は難しい相手と言いながら、上方に向かわねば(秀康の本意が)叶わないというのは、手ごわい景勝を相手にするのを嫌うからではないのか」と理詰めに問われ、結局秀康は同地に残ったという逸話を紹介している。
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結果的に関ヶ原の戦いは家康の勝利に終わり、この一戦により天下の趨勢が決した。
秀康は上杉景勝の抑えとしての働きを認められて、越前68万石に加増転封される。
当時の大名の中では、加賀前田氏の百万石に次ぐ知行高であり、親藩大名の中ではトップである。
これは当時生存していた家康の子息の中では最年長であると同時に、前田氏の抑えとして封じられたとみられる。
ただし『国事叢記』によれば、当初播磨か越前の二択を提示されていたとある。
播磨が選択肢にある理由は、地理的に羽柴氏(秀頼:本姓豊臣氏)の領地と隣接していること、また京から中国地方への玄関口に位置することから羽柴氏と毛利氏含む中国地方の外様大名を牽制するための信頼できる存在が欲しかったのであろう。
『国事叢記』によれば、この二択に対して秀康が家臣に相談したところ、秀吉から付けられた家臣である長谷部茂連が「越前は大国で大変な要害であり、(江戸がある)武州(武蔵)に近く、京への交通の便もよく、北陸道の要にもあたっているので、越前を拝領すべきです」と進言したとある。
結局越前を選択し、慶長6年、秀康は越前に入部した。
その後間もない9月に知行宛行を実施し、重臣を領内の要地に配属する地方知行制を採用した。
代表的なものに府中の本多富正・大野の土屋昌春・丸岡の今村盛次・柿原の多賀谷三経などが挙げられる。
また、知行高約68万石に対して、蔵入地(直轄領)は約12万石であるのに対し、家臣の所領高が55万石超となっており、家臣の給知の割合が極めて大きいことが越前における秀康時代の特徴といえよう。
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そして知行割と同時期にかつて柴田勝家が領していた北庄城跡に築城を開始した。
慶長11年にはほぼ完成したといわれる。
慶長7年3月5日には伝馬定めを北陸道の宿駅に発するなど交通の整備にも努めた。
この頃、姓を結城氏から徳川氏に改めたという記事もみられる(『国事叢記』・「越叟夜話」)。
とりわけ『国事叢記』はこの出来事を慶長9年のことと記しているが、書状などからは改姓の形跡は確認できず、現時点では信憑性はあまりないというのが現実的な結論だろう。
慶長10年権中納言に就任。
越前黄門と称される。
「黄門」は権中納言の唐名(中国風の呼び方)である。
慶長11年から12年にかけて江戸城や禁裏普請などの役を立て続けに務めたが、この頃、疲労からか体調を崩しがちになっていたようである。
慶長12年閏4月8日に死去。享年34歳。
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奇しくもその1カ月前には家康4男忠吉も28歳の若さで逝去しており、家康にとって息子を立て続けに亡くす凶事となった。
当初結城家の菩提寺である孝顕寺に葬られ、法名も「孝顕寺殿前三品黄門吹毛月珊大居士」と贈られたが、徳川一門は浄土宗たるべしとの家康の意向で、新たに浄光院を建立、改葬し、「浄光院殿黄門森巌道慰運正大居士」に法名を改めている。
つまり、秀康は法名が二つ伝わっているのであり、当時としても珍しいことであるといえるだろう。
終始(死後も)、家の都合に翻弄される人生であった。
この後家督は長子・松平忠直が継ぎ、忠直改易後は次男・松平忠昌と続いていき、江戸時代を通して有力な親藩大名として、また幕末でも屈指の雄藩として存在感を示していくが、こうした越前松平氏としての土台を確立させたのは家康の実子であり、豊臣秀吉の養子という「貴種」としての立場を生かした秀康によって築かれたといっても過言ではないだろう。
(寄稿)今井崇文
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