豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)という人物を語る上であげられるのは、農民であった秀吉(農民説は諸説ある)が武家の枠を通り越して関白にまで登りつめたというサクセスストーリーが思い浮かぶ。
しかし、天下統一後の秀吉、もっと言うと秀吉亡き後、頼みの前田利家までも図ったようにこの世を去るという不運。
秀吉の立志伝を疑問に思う余地は全くないのだが、別人と化した晩年をピックアップして見てみたい。
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千利休切腹
千利休の切腹については、諸説あってわかっていない。
織田信長が、茶の湯に執着したこともあって、秀吉と利休の関係は長い。
信長亡き後、秀吉に仕え、わび茶といわれる茶道の形式を完成させ、秀吉政権の政治、経済政策に影響を与えた人物といってよい。
利休という人物を語る上で、優れた文化人という前に堺の大きな商家の出であったことをあげなければならない。
利休は文化人という一面をバックボーンに経済のみならず政治に関することまで影響力を持った。
秀吉は利休を重用した訳を考えた場合、徳川家康が晩年、天海を重用した訳を考えると理解がしやすい。
家康は秀吉より政治的な正統性を宗教に求めたところがあるが、秀吉は家康より政治的な正統性を経済に求めた印象がある。
秀吉は信長時代に経済の重要性を感じてきたはずで、そこを利休に求めたのだが、結果から見れば力を持ちすぎたと言わざるを得ない。
天正19年(1591年)2月、利休は秀吉の怒りを買ったという理由で聚楽第の屋敷で切腹、享年70歳。
前述のように、切腹に至る理由はわかっていないが、ひとつ影響があったと思われるのは、切腹の同年1月に秀吉の弟、豊臣秀長が亡くなっているということである。
元々豊臣政権は不満の塊のようなもので、秀長無くしては成り立たないのだ。
豊臣の崩壊は秀長の死から始まった。
豊臣秀次事件
利休の切腹事件もそうだが、秀次事件も多くの謎に包まれている。
なぜ秀次は切腹までしなければいけなかったのか、という根本的な疑問も解決されてはいないようである。
豊臣秀次は、秀吉の姉の子供で甥にあたり、天正13年(1585年)8月に近江八幡山城主、43万石の大名となる。
秀次にとっての転機は、天正19年(1591年)8月秀吉嫡子、鶴松が3歳で亡くなったことで、同年12月に豊臣政権二代関白に就任している。
しかし、文禄2年(1593年)8月、拾(秀頼)が誕生したことにより秀次の運命は急転した。
秀吉には、子供がなかなかできなかったが、秀次には跡継ぎもすでにいて、側室も多い。
秀吉、秀次共に自分の子供に天下を継がせたいのは当然の親心である。
秀次側からすれば、秀頼が関白になったら秀吉が存命中、あるいは秀頼が成人して跡継ぎができれば、こちらに出番がなくなる、という恐怖感はきっとあったはずだし、(秀頼が関白を務められる年齢になる頃には、秀吉もかなりの高齢にはなるが)秀吉側は秀頼の事を宙に浮かせて自分は絶対に死ねない。
秀次に子供が多いので余計にそう思ったかもしれない。
文禄4年(1595年)7月、秀次は謀反の疑いで、高野山に移され切腹、享年28歳。
その後、妻子も三条河原で処刑。
やはり、謀反の疑いから切腹まで早いことを考えると秀吉は計画的に事を進めたように思える。
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文禄 慶長の役
文禄、慶長の役は、文禄元年(1592年)に始まり、秀吉が明を相手に朝鮮半島に遠征軍を出兵させた戦争を言う。
休戦、講和交渉決裂での再開、を経て慶長3年(1598年)に秀吉の死をもって終結した。
秀吉の大陸進出は、主君であった信長の構想を踏襲したものといわれる。
一方で鶴松を亡くした鬱憤説や、耄碌説など多くあり、これもまた謎である。
秀吉は朝鮮に日本への服属を強要したが、朝鮮はこれを拒み文禄の役が始まる。
日本軍は、名護屋城(佐賀県唐津市)を拠点に15万の大軍勢を朝鮮半島に侵攻させた。
文禄元年(1592年)4月には釜山へ上陸、釜山城を落城させる。
5月には漢城(現ソウル)、7月には平壌城(現北朝鮮)も落城させている。
半島を北上する日本軍は破竹の勢いだったが、もうこの時点では、戦局が変わりつつあって、玉浦(オクポ)沖の海戦での敗退で海上での補給路を寸断され、前線への供給がままならなくなっていく。
7月には、明軍も参戦し日本軍は応戦しているが、食料が不足の状態では、前戦は膠着状態を余儀なくされた。
そこで現地軍は休戦して講和交渉に入る。
秀吉の提示した条件は明の降伏というものが入っており、負けたつもりのない明は、当然受け入れず交渉決裂が決まり慶長2年(1597年)1月、再び朝鮮半島に14万の軍勢を侵攻させて慶長の役が始まる。
そして今回も陸上、海上にわたり日本軍は善戦するが明、朝鮮軍もしっかり準備をしていて半島南部での持久戦となっていたところ、秀吉死去で停戦も含め6年に及んだ激戦はようやく終わりを見た。
夢のまた夢
秀吉に襲った不運のひとつに地震があげられるかもしれない。
小牧長久手の合戦後に発生した天正大地震では、徳川討伐を断念し徳川側に大幅な譲歩した経験があった。
晩年は、文禄5年(1596年)9月、朝鮮出兵のさなかに発生した慶長伏見地震に見舞われている。
秀吉はなんとか助かるが、完成間もない伏見城は倒壊し、秀吉発願の方広寺の大仏もあえなく崩れ去っている。
その時、秀吉は「大仏なのに自分の身も守れないのはどういうことだ」と崩れた大仏に弓を引いたとの逸話が残っている。
最晩年の秀吉は、醍醐寺で花見を催した後、腹痛など様々な症状に見舞われ、時に神経錯乱の状態も見られ床に伏すことが多くなる。
自身の命がわずかと悟った秀吉は、家康はじめ五大老を呼び寄せ、繰り返し秀頼の事を頼むという内容の遺言を遺した。
智をもって日本を一つにした秀吉の遺言にしては物足りない限りだが、ある意味晩年を最も象徴しているようにも思えてならない。
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
豊臣秀吉、慶長3年(1598年)8月18日、伏見城で死去、享年62歳。
(寄稿)浅原
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