久礼田城~岡豊城の北の守りの要~

久礼田城~岡豊城の北の守りの要~

久礼城跡の概要

久礼田城跡は南国市久礼田地区にある城跡で、市の指定史跡となっている。大部分はゴルフ場建設により、失われているが、詰の段、二ノ段、横堀、堀切、土塁、竪堀などが残っており、整備されているので、遺構が確認しやすい。夏は一時草が繁茂して、確認しづらい時期があるが、冬場は草がなく、遺構を確認することが出来る。

昭和60年に南国市教育委員会から出された「高知県南国市中世城館跡」によると、城主は久礼田氏、甫喜山氏とされているが、松田(2019)は、「新左衛門という城主がいたとされるが、新改の甫喜山城に移り甫喜山新右衛門と称したとの伝承もあり、不明な点も多い」と述べている。
なお、久礼田氏は、秦氏三代忠俊の弟忠幸が久礼田を名乗ったのがはじまりといわれているそうである。
余談であるが、忠俊・忠幸兄弟の祖父秦能俊が土佐に入り、長宗我部を名乗ったのが長宗我部氏の始まりと言われており、長宗我部氏と久礼田氏は元を正せば同じ一族である。忠俊の子孫が長宗我部国親、元親、盛親である。

横堀・土塁

こじんまりとした城跡ながら、駐車場の登り口からあがるとすぐに横堀、土塁が確認できる。土塁は高いところで3~4mはありそうだ。北側の部分が特に高くなり、一部広くなっている。想像だが、ここから矢を射かけるようになっていたのかもしれない。
宅間一之(2015)には「本山氏の南進を阻む需要な役割を担うのにふさわしい城である」と書かれており、北方面の防備を重視していたのかもしれない。

二ノ段

土塁の上を歩き、南に移動すると、草や木が繁茂して、一見わかりにくいが、竪堀に行き当たる。(竪堀を写真に収めようとしたが、うまくいかないため、見たい方は現地で確認お願いします)
そこから二ノ段へと続く道がある。
松田(2019)によると、横堀の両端に竪堀を配置する築城法だという。縄張り図を確認すると、確かにそのようになっている。

横堀

二ノ段と詰めの間にも横堀(写真)があり、横堀をそのまま進むと帯曲輪がある。

詰ノ段

詰ノ段はなだらかな土塁が一周している。
松田(2019)は、「虎口付近は東側が櫓台状に一段高くなっており、虎口に侵入してくる敵に横矢がかかるようになっている」と記している。

その他

(引用文献・参考文献)
松田直則「土佐の山城」ハーベスト出版,2019年,348p
南国市教育委員会「高知県南国市中世城館跡」,1985年,9p
宅間一之「長宗我部元親50年のフィールドノート」リーブル出版,2015年,45p
久礼田地区史談会「久礼田の昔と会おう」リーブル出版,2011年,5p

(駐車場等)
パシフィックゴルフクラブの駐車場に停めさせていただくことが出来る。
公共交通機関での来訪は難しいが、高知市中心部からは、とさでん交通田井行きに乗車し「領石出張所」で下車し、徒歩でゴルフ場を目指すことになる。(公共交通機関は令和2年3月現在)

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