世界遺産にもなっている白川郷(しらかわごう)は、岐阜県を流れる庄川流域の呼称です。
合掌造り(がっしょう-づくり)の集落が良好に残っているは、3箇所で、白川郷の荻町集落、五箇山の相倉集落、五箇山の菅沼の集落となります。
最大時にはおよそ1850棟が明治中期にあったとされますが、そんな、白川郷の歴史に関して、調べてみましたので、まとめます。
白川郷は、深い谷間になりますが、いつ頃から人が住みはじめたのかはわかっていません。
一番古い文献では、奈良時代に飛騨の匠(刀鍛冶)として、馬狩村の与左衛門の記述があります。
白川郷の馬狩(まがり)村にに信称寺(しんしょうじ)というお寺を建てたと言う昔話になっています。
信称寺は、庄川の西岸にあります。
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その後、源平合戦にて越中・倶利伽羅峠の戦いになった際に、木曽義仲に敗れた平氏が白川郷に落ち延びで住み着いたともされます。
ただし、落ち武者と言えども、住み着いたと言う事は、ある程度、村が発展していたことが伺えますが、まぁ、平家落ち武者伝説は伝承の域を脱しません。
鎌倉時代の1253年には、親鸞の弟子・嘉念坊善俊が庄川沿いに浄土真宗を布教しました。
親鸞(しんらん)は、比叡山延暦寺でも修行し、のち浄土真宗の宗祖となる訳ですが、嘉念坊(かねんぼう)善俊(ぜんしゅう)は、1231年に箱根にて直弟子となり、命を受けて各地を巡教しました。
そして、白川村鳩谷に道場を構えて浄土真宗を飛騨に広めましたが、その寺が現在の照蓮寺(しょうれんじ)となります。
ただし、古来より、白川郷をはじめ飛騨の土地は、美濃・白山神社の長滝寺が所有しており、絶大な権力を持っていたようです。
しかし、白山・長滝寺の勢力が衰えると、1460年頃から、室町幕府が派遣した内ヶ島為氏が白川郷に進出し、鉱山開発などを行い勢力を伸ばしました。
その過程で、照蓮寺の僧であった三島将監などが駆逐されています。
戦国時代、帰雲城の内ヶ島氏理らは、1586年の天正地震にて、村ごと土砂の下に埋もれました。
ただし、内ヶ島氏は、本拠地を荻町城から帰雲城に移していましたので、現在の白川郷の中心地である荻町集落より、保木脇(ほきわき)地区のほうが、村の規模としては大きかったのかも知れません。
山崩れにて埋没した家屋も、300戸以上とありますしね。
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江戸時代には、飛騨・高山藩(ひだたかやまはん)の領地となり、金森長近が初代藩主となりました。
しかし、飛騨では金・銀・銅・木材など資源が豊富だったことからか、江戸中期からは幕府の直轄地(天領地)となりました。
白川郷の合掌造りの建物が、いつ頃からできたのかは、定かではありませんが、江戸時代の中期頃に、原型ができたと推測されています。
世界的に見ても、白川郷は、有数の豪雪地帯であり、傾斜が急で、大きな屋根を持つ合掌造りの家屋が生まれたと考えられています。
屋根の傾斜が急ですと、屋根に雪が積もらず、家屋の倒壊が軽減され、また、重労働で危険も伴う雪下ろしが不要と言う事です。
合掌造りの茅葺屋根は30年から50年の耐久性があります。
特に農地が乏しい白川郷では、分家を認めず、長男以外に正式な結婚を許さない大家族制度になっていました。
そのため、大きな合掌造りの家に20名~30名ほどの大家族で住んでいたと言う事になります。
なお、分家ができない兄弟は、他家の女性の元へ通って、内縁を結び、妻問い婚をして、生まれた子どもは女性の家にて育てられたと言います。
養蚕で生計を立てていた白川郷では、子供が成人すると貴重な労働力となるため、子供ができると祝福されたようです。
このように女手は、家業に精を出すため、基本的に他家に嫁がず、子どもを生むのが習慣だったと言います。
和田家住宅
特に白川郷・萩町地区の和田家住宅(わだけ-じゅうたく)は、集落で最大規模を誇る合掌造りの建物で、国の重要文化財に指定されています。
和田氏は、江戸時代に名主や番所役人を務め、白川郷の重要な現金収入になっていた焔硝の取引を担っていました。
現在も住居として使われていますが、1階と2階の一部が有料拝観可能となっています。
ちなみに、五箇山は加賀藩・上杉家の支配地で、戦国時代から塩硝(煙硝)製造地でもあり、火薬の原料となりました。
主屋は幅22.3m、梁間12.8mの平面をもつ一重三階で、式台付きの玄関を備えるなど格式の高い大型合掌造り民家になっています。
江戸中期(1700年頃)の建築と考えられており、戦国時代の1573年以来、和田家は代々「弥右衛門」の名を継いでいます。
白川郷・和田家への交通アクセス・行き方ですが、総合案内所であいの館から徒歩15分程度です。
駐車場は、白川郷の有料駐車場利用となります。
有料見学ですが、ぜひ、見ておきたい建物になっています。
見学所要時間は10分~20分ほどです。
白川郷の荻町地区には、現在114の合掌造りが残っています。
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