加藤清正-かとう・きよまさ
1562年7月25日(永禄5年6月24日)~1611年8月2日(慶長16年6月24日)
尾張国の愛知郡(現在の愛知県名古屋市)に加藤清忠(刀鍛冶)の子として産まれた清正。
幼名は夜叉若。
天下人、豊臣秀吉(羽柴秀吉)の子飼いとして秀吉に尽くし、熊本城を築いたことで知られる加藤清正。
虎狩りのエピソードなど、勇猛果敢な武将としてのイメージが強い清正だが、じつは知略に長けた人物でもあり、その英知と豊臣家への忠義により秀吉を支え、秀吉亡き後も征夷大将軍となった徳川家康から命を賭けて秀吉の子、秀頼と豊臣家を護り通したのだった。
今回は、忠義の武将、加藤清正の生涯と豊臣家の命運を賭けた家康との二条城の会見に迫ってみたい。
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加藤清正は、3歳の時に父を亡くし、母が羽柴秀吉の生母・大政所(おおまんどころ)と親戚関係であったことから、当時、近江・長浜城主だった秀吉の小姓となる。
賤ヶ岳の戦いでの功績
1582年6月21日(天正10年6月2日)に起きた明智光秀による歴史的な謀反、本能寺の変での織田信長の死により、織田家の後継者争いが勃発する。
そして1582年7月16日(天正10年6月27日)清州城にて信長の後継者を決めるため会議、世に言う清州会議が開かれる。
ここで、信長家臣では大きな力を持っていた柴田勝家は信長の三男である信孝を推し、山崎の戦において明智光秀を討ったことにより武勲をたてた秀吉が信長嫡男・信忠の子である三法師(織田秀信)を推したことによって二人は激しく対立することとなった。
その結果、丹波長秀や池田恒興といった信長家臣団の賛成を得た三法師が後継者として一応の決着をみることとなる。
しかし、この後継者争いが引き金となり羽柴秀吉と柴田勝家の対立は深まっていく。
それから、秀吉と利家はそれぞれ織田家臣や周辺大名たちへの取り込みを開始。
そして1583年、天正11年4月、近江国の賤ヶ岳周辺にて羽柴軍5万、柴田軍3万が対峙。賤ヶ岳の戦いが開始された。
両陣営の傘下に加わった主な武将は、羽柴秀吉軍に羽柴秀長・丹波長秀・織田信雄・黒田孝高・前野長康・中川清秀・加藤清正・福島正則・石田三成。
柴田勝家軍に佐久間盛政・前田利家・三木自綱(姉小路頼綱)であった。
羽柴軍5万、柴田軍3万という兵力差ではあったが柴田陣営も佐久間盛政らの奮闘により戦いは激戦の一途をたどる。
ところが突如として前田利家が戦線を離脱。
これにより、戦局は羽柴側に傾く。
そして1583年6月13日(天正11年4月23日)、劣勢に追い込まれた柴田勝家は北ノ庄城(福井城)に逃れるが、羽柴軍の戦列に加わった前田利家率いる羽柴軍に包囲される。
翌天正11年4月24日、柴田勝家は織田信長の妹でもある妻のお市の方らと自害した。
この戦いにおいて、加藤清正は前田軍の指揮官・山路正国を討ち取った武勲により【賤ヶ岳の七本槍】と称えられ、秀吉より所領3千石を与えられた。
肥後国人一揆の鎮圧
1585年(天正13年7月)に関白、翌年には正親町(おおぎまち)天皇より豊臣姓を賜り太政大臣となった秀吉は四国に続き九州までも平定したが、肥後国(熊本県)で地元豪族による大規模な反乱が勃発。
反乱は拡大していき、収拾の目途が立たない事態となっていった。
秀吉も頭を悩ませるこの事態の鎮圧に名乗りを上げたのが加藤清正であった。
どの武将も手を拱いていた反乱を治めるにあたり、清正は慈悲の心を持ってすることを秀吉に説いたのだった。
当時26歳、わずか3千石だった清正のこの言に、居合わせた武将たちは冷笑を浴びせるが、秀吉は清正に肥後の半国となる19万5千国を与え肥後の統治を任せる。
勇猛果敢な印象の強い清正だが、肥後の一揆に関わった民衆の罪を咎めず、戦乱によって生じた土地の修復をはかり、人々の暮らしを豊かにすることで人々の心を掴み反乱を鎮圧し統治し、見事主君の期待に応えるのだった。
秀吉の死そして関ヶ原の戦いへ
天下統一を果たした豊臣秀吉の野望は朝鮮に向けられる。
1592年(文禄元年)より開始された文禄の役と慶長3年の慶長の役にて清正も1万の兵を率いて朝鮮に出兵している。
しかし、二度に渡る朝鮮侵略も1598年(慶長3年8月18日)に秀吉が死去。
これにより日本軍は撤退を余儀なくされ終結に至る。
豊臣秀吉亡きあと、その後継ぎである幼い秀頼を擁する人物として石田三成と徳川家康が豊臣政権を二分することとなった。
秀吉の側近であり奉行として豊臣家を支えた石田三成。
そして、豊臣政権下の大名の中では関東を中心に圧倒的な勢力を誇っていた徳川家康。
秀頼を、ひいては豊臣政権を任せうる人物はどちらなのか。
清正はその選択に迫られることになったのだった。
清正が選んだのは秀吉の死後も臣下の礼を欠かさなかった家康であった。
家康こそ秀吉への忠義に厚い武将であると考え、まだ幼かった秀頼を盛り立てていけると考えたのであろう。
そして1600年10月21日(慶長5年9月15日)、天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いが勃発。
石田三成や宇喜多秀家らによって結成した西軍には総大将を毛利輝基とし、傘下の主な武将には上杉景勝・大谷吉嗣・小西行長・島津義弘・小早川秀秋など。
相対する東軍は総大将・徳川家康、傘下の主な武将には徳川秀忠・結城秀康・黒田長政・福島正則・細川忠興・井伊直征・松平忠吉など。
加藤清正も東軍の指揮官として参戦する。
西軍8万~10万、東軍7万5千以上の兵力が激突した壮絶な戦いとなったこの戦いは家康率いる東軍が勝利し、清正も当初苦戦を強いられた九州にて抗戦し、華々しい戦果を挙げ52万石を与えられた。
二条城での会見と豊臣への忠義
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は大阪城に出向き戦勝の報告を秀頼に行った。
清正もこれにて豊臣政権も安泰だと確信したことだろう。
ところが、家康は誰かの臣下に留まるようなただの武将ではなかった。
関ヶ原の戦いに勝利し、その勢力を絶対的なものとした家康は、権力を駆使し豊臣家の力を徐々に削いでいく。
秀頼に指示し秀吉を弔うという名目で数々の寺社仏閣を建てさせるなど経済力を圧迫させていったのだ。
そして1603年(慶長8年2月)、絶対的な権力を手にした徳川家康は征夷大将軍に就き江戸幕府を開き、政を掌握した。
もはや、家康には豊臣家への忠義はなく、諸大名たちも徳川方へと傾いていく。
家康も自らの権威をさらに強固なものとするために、反勢力の旗印となりうる豊臣秀頼の存在は邪魔であった。
1611年(慶長16年3月)、家康は豊臣家を滅ぼすためについに動いた。
10万に及ぶ軍勢を引き連れ上洛し、秀頼に二条城での会見に赴くよう要請する。
事態は風雲急を告げていた。
もし、この家康の申し出を断れば、徳川を敵にまわし戦になることは避けられない。
しかし、受け入れても豊臣の政権を剥奪され、徳川に従うことを強いられるであろう。
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秀吉への大恩に報い、命を賭けて秀頼を護ることを誓った清正は決断した。
たとえ、豊臣家が一大名となろうとも秀頼を護り豊臣家を存続させるため、家康の要請を受け入れることにしたのだ。
清正は、秀頼に家康との会見に臨むよう進言する。
すると秀頼の母・淀はこれに反対。
会見に臨めば秀頼の命はないと主張する淀に対し、清正は命を賭けて秀頼を護ることを約束し承諾させる。
もし、家康の申し出を断れば、その時点で豊臣家は滅ぼされることになるのだから。
慶長16年3月28日、二条城での会見に同席した清正は、秀頼を下座に控えさせ家康を迎えた。
現れた家康はかつての主君である秀頼に共に上座で会見しようと促す。
秀頼は清正にその答えを求め視線を向ける。
清正は黙って僅かに首を振る。
徳川への恭順の意を示すことが豊臣家と秀頼を護るただ一つの手立てであったからだ。
その意図を汲み取った秀頼は、下座での拝礼と会見を行い、家康への恭順の意を示した。
清正はこの会見を無事に乗り切り、豊臣家の存亡の危機を救ったのだった。
秀頼と豊臣家を護るという大役を果たした清正は、秀頼を大阪城へ送り届け肥後への帰路にて発病し倒れる。
一説には以前より病に侵されていたことや毒物であったとも云われる。
1611年8月2日(慶長16年6月24日)、加藤清正死去。
享年50歳、満49歳であった。
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主君への忠義を貫いた加藤清正は、二条城での会見後に涙ながらに「秀吉公からの厚い恩に今日報いることができた」と語ったと云う。
清正の死より大坂の陣へ
徳川家康にとって、豊臣を守護する知将加藤清正は最も邪魔な存在であり、同時に認め恐れていた。
その清正が亡き者となり、家康はその後、豊臣家を滅ぼすために本格的に動き出す。大阪冬・夏の陣での戦いである。
もし、清正がまだ生きていたのならば、この戦いも避けられた、或いは先に延ばすことができたかもしれない。
(寄稿)探偵N
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