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旅館「東屋」について
神奈川県藤沢市鵠沼海岸２丁目６−１１所在の旅館「東屋」について紹介します。
旅館東屋（りょかんあずまや）は、
1897年（明治30年）頃から1939年（昭和14年）まで
神奈川県鵠沼海岸にあった旅館でした。
多くの文人に愛され、「文士宿」の異名で知られています。
名称は「東家」、「あづまや」とも表記されていました。
【歴史】
（１）日本初のリゾート開発から「文士宿」となるきっかけ
地曳き網の漁場があるのみの寂しい鵠沼海岸でビーチリゾートへの開発が始まります。
時に東海道線の開通を翌年に控えた1886年（明治19年）の事でした。
鵠沼海岸海水浴場が開設され、
海水浴客受け入れのため旅館「鵠沼 館」が開業します。
「武州川越の人」といわれる伊東将行が同旅館に職を得ます。
この伊東将行が
日本初の大型別荘分譲地「鵠沼海岸別荘地」の開発を手がけ、
旅館東屋を開きます。
1892年（明治25年）当初は貸別荘風でしたが、
1897年（明治30年）、旅館として新築し、
初代女将に東京神楽坂の料亭「吉熊」の女中頭だった
長谷川榮（ゑい）をスカウトしてきました。
榮は才色兼備で、吉熊時代から人気者でした。
吉熊は在京の文人たちが愛用した料亭で、
ことに尾崎紅葉主宰の硯友社が常用していました。
その一人広津柳浪が開業早々の東屋に滞在し、
そこに榮が働いているのを見て、
在京の文人たちに知れたというのです。
これが、「文士宿」となるきっかけでした。
（２）震災前の東屋本館と庭池
東屋は、神奈川県高座郡鵠沼村6642番地、
現在の藤沢市鵠沼海岸二丁目8番一帯の、
約2万平方メートルの広大な敷地に、
舟の浮かぶ大きな庭池を持つリゾート旅館でした。
魚料理が知られ、仲居が美人揃いだと評判だったそうです。
本館は木造二階建てで客室は14、卓球室が付随していました。
次第に増築した別館部分の客室は10で、
庭には亭（ちん）と呼んだ離れが5棟あったそうです。
1906年（明治39年）には隣接して鵠沼海浜医院が開業し、
その翌年には鵠沼郵便局が東屋構内に開設され、
鵠沼海岸のセンター的役割も果たしていました。
保養地の旅館として、
海水浴客や避暑、避寒の客を受け入れるばかりでなく、
当時「国民病」とも呼ばれた肺結核をはじめとする
転地療養の目的でも利用されていました。
藤沢に隣接する湘南の諸都市、鎌倉、茅ヶ崎、平塚には
結核療養所が次々に開業していきましたが、
藤沢には地元の反対も根強く、結核療養所はありませんでした。
東屋はその代わりにも使われたのです。
1900年（明治33年）から翌年にかけて
長期逗留した斎藤緑雨はその代表でした。
大正時代には大杉栄や北村初雄が知られ、北村は東屋で亡くなりました。
1902年（明治35年）9月1日、
江之島電気鉄道が営業運転を開始すると、
伊東将行は、鵠沼海岸別荘地開発の仕事が多忙になり、
東屋の経営権は長谷川榮に委ねられました。
長谷川家には成人した兄弟が6人、
うち5人が女性で、男性は長谷川繁蔵だけでした。
繁蔵は長男・長谷川欽一が誕生して間もなく病床に伏し、
欽一は2歳で鵠沼の伯母・榮のもとで育てられました。
（３）大正文化と東屋、地震。
繁蔵は欽一が3歳に時に病没し、
長谷川家の家督は長谷川欽一が引き継ぎます。
東屋の経営権は長谷川欽一にあると長谷川家は解釈し、
伊東家側と意見の対立が生じ、その後和解しました。
幼い欽一の後見人には、榮の末妹・長谷川寿々と結婚した後藤栄となりました。
1906年（明治39年）、
伊東将行は、埼玉県吹上出身の医師・福田良平を招聘しましたが、
彼は後に榮の妹・長谷川蝶と結婚しました。
1907年（明治40年）、榮の姉・杉村たかが
協議離婚の末長谷川姓に戻って、
長男・龍三（後の画家・長谷川路可）と共に本籍を鵠沼村に移します。
たかは鵠沼に移住して妹を助けますが、
龍三は暁星学校の寄宿舎で生活し、
鵠沼には長期休業の時に帰省する程度でした。
またこの年、志賀直哉と武者小路実篤が東屋に滞在して
『白樺』発刊を相談し、やがて白樺派を生みだしていくのです。
1916年（大正5年）1月、東屋の初代女将・長谷川榮は、
腸閉塞のため鎌倉の病院で急死し、長谷川たかが二代目女将となります。
たかの手で東屋はさらに発展し、
藤沢町を代表する湘南随一の名旅館となっていきました。
鵠沼海岸別荘地開発も軌道に乗った
1920年（大正9年）7月29日、
伊東将行が享年75脳溢血で死去しました。
同年9月12日、
伊東将行の功績を顕彰する鵠沼海岸別荘地開発記念碑が
鵠沼 賀来神社境内に建設されました。
たかの一人息子・龍三は東京美術学校に進み、日本画を修得します。
1921年（大正10年） 、
長谷川路可として美術学校を卒業後、フランスに留学します。
従弟の長谷川欽一も1922年（大正11年） 、
路可を頼ってフランスへ遊学し、
ソルボンヌで学び、音楽評論家を目指す予定でした。
ところが、
1923年（大正12年）9月1日に起こった大正関東地震（震源：相模湾東部）で
東屋は倒壊し、庭池には津波の浸水もありました。
欽一は東屋復興のため志半ばでフランス遊学から呼び戻されます。
（４）震災後
1924年（大正13年）、
再建して営業を始めた東屋は、
本館の客室数は10、2棟の離れは計7室、
それぞれ次の間つきで独立性の高いものになりました。
別に大広間が設けられ、大宴会も可能になりました。
また、ビリヤード場も設けられ、後にはダンスホールも建てらました。
庭園は庭池の面積を縮小し、
当時としては数少ない硬球のテニスコートが2面造られました。
後には、人力車時代から自動車時代への転換に応じて、
車寄せをつけたり
湘南遊歩道路側に石畳舗装をした「海浜口」という門を設けました。
この石畳は現在も残っています。
年号が大正から昭和に替わる1926年（大正15年）1月、
芥川龍之介の妻文子の弟・塚本八洲が療養のため鵠沼に移住します。
この転地が、芥川の鵠沼滞在の契機となりました。
2月から5月、
芥川龍之介が妻と三男也寸志をともなって初めて東屋に滞在、
『追憶』を発表し始めます。
この年に東屋に宿泊した文人は10人以上が判明しており、
ほとんどが芥川龍之介との面会を目的にしていました。
昭和に入ると、東屋に滞在する文人は極端に減少します。
1936年（昭和11年）、
川端康成が滞在して少女小説『花のワルツ』を執筆した記録と、
武者小路実篤が1935年、1938年、1939年、1
940年（廃業後）東屋に滞在して執筆した記録があります。
1929年（昭和4年）4月1日、小田原急行鉄道江ノ島線が開通し、
鵠沼海岸駅が開設されて「直通」の停車駅となり、
アクセスは抜群に向上しました。
藤沢町の賓館として、接待や宴会場として使われていきます。
海岸では神奈川県主導による観光地開発が進められ、
魚附砂防林の植栽（1928年（昭和3年））、
恒久建物の鉄道省海の家開設（1931年（昭和6年））、
西洋風の「鵠沼ホテル」開業（1933年（昭和8年））、
湘南遊歩道路（後の国道134号）開通（1935年（昭和10年））、
県立鵠沼プール開場（1937年（昭和12年））などが相次ぎ、
多くの海水浴客でつかの間の賑わいを見せます。
でも歴史的には、世界恐慌から日中戦争へとなっていきます。
（５）東屋、廃業
1927年（昭和2年）、
フランス留学より帰国した画家長谷川路可は、
東屋の西方にアトリエを構え、
近所の若者のために画塾を開きました。
小田急が開通すると、
大和学園高等女学校(現・聖セシリア女子高校)に職を得て、
南林間まで通勤し、美術を担当します。
路可の鵠沼生活は10年ほどで、
1937年（昭和12年）鵠沼より東京目白へ転出し、
病弱となった母・長谷川たかを呼び寄せます。
1938年（昭和13年）9月7日、
東屋二代目女将・長谷川たかは、目白で死去し、
墓所は鵠沼海岸の本眞寺です。
それから1年後の1939年（昭和14年）9月11日、
長谷川欽一は東屋を廃業します。
【アクセス】
小田急・江ノ島線「鵠沼海岸」駅
徒歩５分以内
駅前のにぎやかな商店街から少し入ったところにあります。
付近は閑静ですがリゾートでもある土地柄なのか
開放的で明るい感じの住宅街です。
「東屋」に宿泊した文人
【明治時代】
広津柳浪（1897年）
小泉八雲（1898年）
斎藤緑雨（1900年）
與謝野寬（1901年）
徳冨蘆花（1901年）
馬場孤蝶（1901年）
高山樗牛（1902年）結核療養のため東屋に短期滞在、2か月後没。
武者小路実篤（1906年、1907年、1912年）
志賀直哉（1907年、1911年）
今井達夫（1909年）(5歳)、
里見弴・中村貴之（1909年）
谷崎潤一郎（1911年）
久保田万太郎（1912年、1917年）
【大正時代（震災前）】
志賀直哉（1912年）
武者小路実篤（1914〜1915年）
有島武郎（1915年）
芥川龍之介（1918年）
谷崎潤一郎（1918年）
佐藤春夫（1918年、1921年）
宇野浩二（1920年、1921年、1922年）
武林無想庵（1920年）
中平文子（1920年）
吉屋信子（1921年）
大杉栄（1921〜1922年）結核療養。
江口渙（1921年）
徳田秋声（1920年、1921年）
芥川龍之介（1921年、1922年）
久米正雄（1922年）
北村初雄（1922年）東屋で静養。12月2日、東屋にて病没。
【震災以後】
久米正雄（1924年）
芥川龍之介（1926年）
芥川也寸志（嬰児期、1926年）
蒲原春夫（1926年）
古木鉄太郎（1926年）
神崎清（1926年）
山本実彦（1926年）
小穴隆一（洋画家、1926年）
堀辰雄（1926年）
斎藤茂吉・土屋文明（1926年）
恒藤恭（1926年）
菊池寛（1926年）
葛巻義敏（龍之介の甥。1926年）
羽仁説子（1926年）東屋で転地療養。
土方与志（演出家、長谷川路可の友人、1928年）東屋に滞在して結核療養。
宮本百合子・湯浅芳子（1930年）
武者小路実篤（1935年、1938年、1939年、1940年＝廃業後）
川端康成（1936年）
白井喬二（1958年）旧東屋の別館を借り受け、「江望荘」と名付けて3年間執筆活動しながら静養生活。
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