浮牛城址(上口内要害)

浮牛城址(上口内要害)

浮牛城跡について

〒024-0211 岩手県北上市口内町松坂所在の浮牛城跡を紹介します。
上口内要害ともいわれ、読み方は「ふぎゅうじょう」です。
伊達藩は、領内に上級家臣を配置し、館と知行地を与え小領主とし、地域を支配させました。
この地は、南部藩との藩境に位置しており、
伊達藩と南部藩を結ぶ脇街道があり、軍事上の重要な地でした。
浮牛城を中心に小城下町をつくり、100人位の武士団が常住していたそうです。
口内在郷武士団は、
一家・五家・着座・御小姓組・御徒おかち組・御足軽・御預御足軽と
家格が分かれていたそうです。
鎌倉時代、浮牛城には口内氏(くちないし)がいました。
口内氏とは葛西氏七党の一人江刺氏の一族です。
この地名の由来となっています。
天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置で、追放され南部領へ移りました。
伊達領になった口内領主には、
初め瀬上(せのうえ)氏、次に小梁川(こやながわ)氏となりました。
しかし、瀬上氏と小梁川氏は、
慶長5年(1600)の和賀の兵乱(一揆)に加勢し敗れました。
その後、藤田氏(一家)・田手(たで)氏(一門)・
古内(ふるうち)氏(着座)と代わり
最後は中島氏(一族)で、明治維新をむかえました。

戊辰戦争(明治維新)後、武士廃止となり、
屋敷、住居、手作てづくり地(田畑)を与えられ、全員帰農土着したとのことです。

浮牛城の構造

浮牛城は、孤立状の丘陵にあり高さ30m・東西200m・南北130mの平山城で、
本丸・二の丸があり、周囲は水掘り・空から掘・土塁・矢来をめぐらしていました。

浮牛城の大要本丸には書院と明神社があり、
二の丸には領主の御住居と土蔵と山王社、
それに馬場と的場まとばがあり。大手門・西門・東門(土門)がありました。

城下は、武士居住の小路(西・袋・向・四軒・中・八谷崎等)と
町組(荒・新)があり、そ
れに御百姓で伝馬担当の新町に分けて、城下町を形成していたそうです。

浮牛城の由緒

浮牛城築城は陸奥六郡の豪族である安倍貞任と伝わり、
築城の際、生牛三頭を埋めて地鎮をしたことで命名されたそうです。

築城工事に先立ち、土地の神を祀る地鎮の儀式に、
生きた牛をいけにえとして神に捧げたのでした。
この時代の頃は、生きた牛をいけにえとして神に捧げる風習があり、
後に朝廷から地域によっては殺牛祭祀の禁令が出された程でした。

浮ふ城(浮うき城)とは、
内堀や外堀をもつ堅固な城のことで、
水掘りで城(館)が浮いたように、浮んだように見える城とのことです。

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