天野隆重の解説~天野元明も 毛利家の重臣

天野隆重

天野隆重とは

天野隆重 (あまの-たかしげ) は、戦国時代の武将で、文亀3年(1503年)、安芸・金明山城主である天野元貞の長男として生まれました。
母は、安芸・毛利氏の一族で、毛利家の筆頭家老である福原広俊の娘(福原貞俊の妹)です。
そもそも、天野氏は、藤原南家工藤氏の一族である藤原景光が、平安時代に、伊豆国天野郷に住んで、天野藤内(天野遠景)と称したのが始まりです。
その子・天野遠景は、源頼朝の挙兵にも従っています。
その天野氏の庶流が、駿河・相模・三河・尾張・甲斐・安芸・能登などに広がったと言う事になり、安芸・生城山城の生城山天野氏は分家となります。


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1551年に大内義隆が、陶隆房(陶晴賢)の謀反によって殺害された大寧寺の変になると、毛利元就は独立化を図ります。
以後、天野隆重は毛利家に従うと、厳島の戦いなどで活躍しました。
また、天野隆重は新たに財崎城を築いて館を移し、金明山城には、家来の土肥藤左衛門を配置しています。
永禄年間(1558年〜1570年)には、豊前・松山城にて、杉重良と共に籠城し、大友氏の攻撃を防いでいます。

その後、1566年、月山富田城の戦いで尼子氏が滅亡した際にも戦功があったようで、戦いのあと、重要な支城の出雲・熊野城(トップ写真)に入って戦後処理をしたようです。
翌年、天野隆重は月山富田城に移り、毛利元秋を迎えました。

永禄12年(1569年)、尼子勝久ら尼子再興軍6000が、月山富田城を攻撃しますが、この時、天野隆重・毛利元秋ら毛利勢は、僅か300でした。
そのため、月山富田城を明け渡して、降伏すると見せかけ、やってきた尼子再興軍に奇襲をかけ、秋上宗信らを撃退しています。
更には、浄安寺に伏兵とした入った山中鹿之助らに対して、天野隆重は静かに近づいて、鉄砲や矢を猛射し勝利しています。

毛利勢の毛利輝元吉川元春小早川隆景、児玉就久ら2万6000が出雲に到着すると、元亀元年(1570年)、布部山の戦いで尼子再興軍を蹴散らしました
そして、月山富田城から天野隆重は、出雲・熊野城に移り、熊野城下に居を構え、毛利元秋を補佐しています。


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子の天野元明(あまの-もとあき)は、1578年、上月城の戦いに参じると、降伏した山中幸盛(山中鹿之助)の身柄を安芸へ護送するように、毛利氏より命じられています。
そして、護送中に家人の河村新左衛門と福間彦右衛門に命じ、山中幸盛を殺害しました。

天野隆重は、1584年4月17日没。享年82。

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