野間大坊の見どころをわかりやすく解説【初詣】駐車場の場所など~源義朝の墓・池禅尼の墓・織田信孝の墓

  • HOME
  • 歴メン情報
  • 寺社仏閣
  • 野間大坊の見どころをわかりやすく解説【初詣】駐車場の場所など~源義朝の墓・池禅尼の墓・織田信孝の墓
野間大坊

野間大坊とは

野間大坊(のまだいぼう)は愛知県知多郡美浜町にある真言宗豊山派の寺院
正式には正式には鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)と言う。

野間大坊

ご本尊は阿弥陀三尊像で快慶の作と考えられる。
大御堂寺縁起によると、天武天皇の飛鳥時代に役小角が阿弥陀寺として創建し、聖武天皇の奈良時代に行基が中興したとあるので本当ならスゴイ。
確かに役小角(えんの おづの)がいたとされる時代に合うし、行基(ぎょうき) に関しても整合性がある。
その後、弘法大師(空海)が知多半島を訪れた際には一千座の護摩を炊き、庶民の幸福を祈ったとされる。
承歴年間(1077年~1081年)には、白河天皇の皇室繁栄を祈願する寺として「大御堂寺」と称された。

源義朝の墓

平安時代末期の平治元年(1159年)、平治の乱に敗れて東海道へ逃れて来た敗戦の将・源義朝(源頼朝の父)は、家来である鎌田政清の舅・長田忠致尾張・長田屋敷に逗留した。
しかし、長田忠致・長田景致の父子は恩賞を目当に、湯殿(野間駅の東にある法山寺の浴槽とされる)にて入浴中の源義朝を殺害。
鎌田政清(妻は長田忠致の娘)も酒を飲まされて騙し討ちに遭い、源義朝の首は京・六波羅にいる平清盛へ差し出し長田忠致は壱岐守に任ぜられた。

野間大坊の境内には、源義朝の首を洗ったとされる「血の池」(下記写真)があり、国家に異変があると池の水が赤く染まると言う伝説があるようだ。

野間大坊・血の池

鎌田政清の妻(長田忠致の娘)は父の所業に悲しみ、川に身を投げて自殺したとされる。
ただし、場所は武蔵・山田城山 (鎌田氏館)かもしれません。

なお、野間大坊の境内に源義朝の墓がある

源義朝の墓所

源義朝は「我に木太刀の一本でもあれば、むざむざ討たれはせん」と言って無念の死を遂げたとされ、たくさんの木太刀が奉納されている。
木太刀は購入でき、願いを書いて奉納すると願いが叶うと言われている。

源義朝の墓

1167年、平康頼が尾張守の代官として赴任すると、荒れ果てていた源義朝の墓に水田三十町を寄付して小堂を建て、6人の僧に供養させたと言う。
その話を聞いた源頼朝は、1186年、平康頼を阿波・麻植保(おえのほ)の保司(ほうし)に任じた。


スポンサーリンク



1190年10月25日、源頼朝は鎌倉から上洛途中に、尾張国・須佐ノ浦の須細治部大夫爲基の案内にて父・源義朝の墓を参拝した。
この時、地蔵菩薩と不動明王・毘沙門天を納め、伽藍など整備(寄進)したとされる。
源頼朝がご本尊に願い続けて平家打倒と言う祈願を達成したことから祈願成就・開運の寺とも。

鎌田政清夫妻の供養塔

下記は鎌田政清夫妻の供養塔。

鎌田政清夫妻の供養塔

鎌田政清は鎌田正家とも書くので現地では鎌田正家との記述になっていた。
1185年9月3日、鎌田政清の首と源義朝の遺骨は源頼朝によって鎌倉の勝長寿院に改めて葬られている。

なお源頼朝は、鎌田正清の一人娘に鎌田氏の名跡を継ぐことを許したたとされる。

池禅尼の墓

池禅尼の墓も野間大坊にある。

池禅尼の墓

池禅尼(いけのぜんに)は平清盛の継母であるが、まだ幼かった源頼朝や源義経らの処刑をしないようにと平清盛に進言して命を助けたともされるため供養されているのであろう。
池禅尼が断食までして、幼い遺児らの助命を願い出たとされる。
もっとも源頼朝は池禅尼の恩を忘れずに、鎌倉幕府を起こしても池禅尼の子・平頼盛を優遇し、平清盛の男兄弟の中で平頼盛は唯一の生き残りとなって奈良・東大寺で出家している。

また、野間大坊の梵鐘には建長2年(1250年)の銘があり、鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣が寄進したもので国の重要文化財に指定されている。

織田信孝の墓

戦国時代に織田信孝(織田信長の3男)が最後を迎えた地と言う事もあり、織田信孝の墓もある。

織田信孝の墓

本能寺の変のあと1583年、賤ヶ岳の戦い柴田勝家を破った羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、岐阜城の織田信孝を包囲した。
援軍も得られない織田信孝は降伏するとは長良川を下って知多の野間大坊にある安養院に入る。
そして、織田信雄の命にて織田信孝は切腹して自害した。

このとき織田信孝は、腹をかき切ると腸をつかみ出し床の間にあった梅の掛け軸に投げつけたと伝わる。享年26。

その安養院には短刀とその血の跡が残る掛け軸が伝来していると言う。
介錯した太田新左衛門尉は介も自害して殉死した。
天下人となった豊臣秀吉は、織田信孝の怨霊を畏れて霊を弔うべく、寺領190石を大御堂寺に寄進している。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めで河和城の戸田守光が討死し城を追われた戸田守光の妻と子らは野間大御堂寺(野間大坊)に逃れ、剃髪すると妙源禅尼と称した。
その後、叔母・於大の方を頼って江戸城下に移り住んだと言う。


スポンサーリンク



御朱印は大御堂寺・野間大坊と各札所とあり野間大坊客殿にて頂ける。

見学所要時間は20分~40分程度。
初詣などは混雑しそうだ。

交通アクセス

野間大坊への行き方だが、名鉄・知多新線の 野間駅から徒歩10分。
クルマの場合2箇所ほどに合計200台分の大きな無料駐車場がある。
駐車場は当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」でポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)

このあとはすぐ近くの長田屋敷長田父子磔の松に向った。

5分でわかりやすい【源頼朝】の解説「鎌倉幕府・征夷大将軍・鎌倉殿」旧相模川橋脚も (鎌倉殿の13人)
源義朝の解説 我れに木太刀の一本なりともあれば
鎌倉・勝長寿院の解説(大御堂)~鎌倉3大寺社のひとつ
山田城山 (鎌田氏館) 鎌田政清 (鎌田正清、鎌田政家、鎌田正家、鎌田兵衛正清)
織田信孝~有能な武将だったと考えられる織田信長の3男

フィードバックする
スポンサーリンク
スポンサーリンク

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。