藤原仲能とは
藤原仲能(ふじわら-の-なかよし)は、鎌倉時代の公家で、大江広元の妹婿・藤原仲教の子となります。
鎌倉幕府は、源頼朝が創設以来、北条政子が産んだ、源頼家、源実朝と源頼朝の血を継ぐ者が征夷大将軍を務めました。
しかし、1219年、源実朝が暗殺され、後継ぎがいなくなりました。
そのため、鎌倉幕府は京都から将軍を迎えることにし、源頼朝の同母妹・坊門姫の曾孫にあたる藤原頼経が鎌倉に入りました。
この時、藤原頼経は、三寅と呼ばれたまだ2歳の幼子だったため、北条政子が貢献し、執権・北条義時が政権運営を確率しました。
1226年、元服していた藤原頼経が、鎌倉幕府の4代将軍となり、のち、唯一源氏の血筋だった源頼家の娘・竹御所(源媄子)を正室にします。
しかし、竹御所は、難産の末に男児が死産し、本人も死去したため、源頼朝の血筋は途絶えています。
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4代将軍・藤原頼経と、藤原親能の娘の間に生まれた、藤原頼嗣(ふじわら-の-よりつぐ)が家督を次いで5代将軍になりますが、執権・北条氏に反対する北条光時(名越光時)の反乱などがあり、藤原頼経は鎌倉を追放され、京都へ戻りました。
藤原頼嗣は将軍として鎌倉に残るも、鎌倉幕府は、後嵯峨上皇の皇子・宗尊親王を新将軍とすることに決定しました。
だいぶ前置きが長くなり、申し訳ありません。
この宗尊親王(むねたかしんのう)が、1252年4月、11歳で鎌倉に入った際に、同行したのが、この記事でご紹介する藤原仲能になります。
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まだ、幼い宗尊親王の後見人として、藤原仲能が付き従ったと言う事になります。
父・藤原仲教(ふじわら-の-なかのり)は、土佐国田村庄を得ていることから、田村仲能と記載することがあります。
なお、宗尊親王に従って鎌倉に入ったのは、上杉氏の租となる上杉重房(うえすぎ-しげふさ)、藤原隆茂、源宗忠などもいたようです。
藤原仲能は、鎌倉幕府の評定衆にも加わり、陸奥守、伊賀守、能登守を務めますが、1253年、宗尊親王の命を受けて、七堂伽藍を有する鎌倉・海蔵寺を、藤原仲能が創建したとあります。
藤原仲能は、1256年(建長8年)12月9日に死去。
道智禅師と呼ばれたようで、位牌が海蔵寺に現存しており、海蔵寺の裏山にあたる源氏山の葛原岡神社近くに、藤原仲能の墓跡の石碑が残っています。
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